中日对照日语短文.docx
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中日对照日语短文
再来一杯
私がパーティーが好きなのは「これでおしまいよ、お代わりはだめですよ」と言われないことである。
わが家での晩酌では必ず、このせふりが出てくる。
おちょうしは三本、ワインなら女房と二人でフルボトル一本、これがリミットである。
パーティではこのリミットがない。
コンパニオン嬢は、私の手にしているグラスがカラッポであるのを見ると、いくらでもお代わりを持ってきてくれるのだ。
こんな素晴らしいことがあろうか。
しかし、カッコつけて言うわけではないけれど、パーティーの楽しみの、もっと大きい物は、旧友、知友に会えることだ。
私のようなフリーランスの著述業者は、仲間と気軽に飲むことができない。
サラリーマンのように組織の中でくらしていると、働く時もいっしょなら、休む時もいっしょだから、飲みに行くのも一緒にいける。
フリーランサーはそれができない。
各人が個別のスケジュールで動いているから、こちらの仕事が一段落ついたからといって、仲間を誘うわけには行かない。
みんな、やたらに忙しいのである。
だから、パーティーは仲間と久しぶりに顔を合わせ、歓談するいい機会なのだ。
胃を切って入院していたとか聞いていた先輩が、意外に元気な顔色で、グラスを手に立っているのを見つけたりするとほっとする。
愛人に逃げられたと言う噂の男が会場の隅のほうでしょんぼりしているのを見て、肩をたたいて励ましてやることもある。
「向こうが勝手に逃げ出したのだから、手切れ金だって払わなくてすんだんだろ。
女房に露見しないで一件落着したわけじゃないか。
むしろラッキーだったと思うべきじゃないか。
これからは奥さん一筋で、お励みなさいよ。
な、元気を出して」変な励まして方ではあるが、もてない小生としては、内心言い気味だと思っているころがあるから、どうしてもこんなふうになってしまうのだ。
ちょっとけちな話を書く。
パーティーで「ご招待」をされることがある。
誰々さんが再起する、お祝いと激励の会、なんてのがあって、案内状が届く。
発起人の中には何人も親しい人がいて出席しないわけには行かない。
それはいいのだが、会費が一万五千円のところが消してあって「ご招待」というはんこがおしてある。
これがまずいんだよな。
「ご招待」だからといって手ぶらではいけない。
「お祝い」の袋を持参しなければならないが、これには一万五千円なんて半端な金額は入れられない。
二万円という数字も日本では縁起が悪くて祝いことには不適、ということになっている。
ウームとうなって、三万円を包みながら私は内心、「ご招待」は高くつくんだよなぁ、とつぶやくのである。
中译文:
我这个人特喜欢聚餐会。
因为聚餐会上没有人对我说:
“这可是最后一杯了,不能再喝了。
” 在我家晚餐小酌时,每每听到这样的“台词”。
我和我妻用酒壶酌的话,可喝三小壶:
葡萄酒的话,两人喝一瓶。
这是限度。
聚餐会上没有这些规矩。
当招待员小姐望见你手中的酒杯空空如也时,总要为你斟上新酒,从来不去干涉你已喝了几杯。
不去聚餐会哪儿会有这种好事?
不过,我并不是在说些冠冕堂皇的话,酒宴的愉悦更值得一提的是:
知己故友的喜相逢。
像我这样著书立说的自由撰稿人,不能轻而易举地与同仁们相聚开怀畅饮。
我们不像公司职员,生活在集体之中,工作时在一块儿,休息时也在一块儿,喝酒就能相约同去。
自由撰稿人却不能够。
各人忙各人的事儿,都有自己的计划安排,虽说你自己的工作告一段落,却也不能邀同仁们相聚。
大家都在忙自己的事,忙得不可开交。
所以,聚餐会上是与同仁们久别重逢、畅谈而不苟言笑的好时机。
当你看到一位你早有耳闻因为胃切除住院的前辈,满面红光地手持一高脚酒杯站在那儿时,你会为之怃然。
有时,当你瞥见一位风闻被情人一走了之的某男沮丧地躲在会场上时,你会上前拍拍他的肩,说上几句宽心的话。
“是人家随随便便一走了知的,这样你也不必花那笔赡养费不就了了吗?
事情有没有败落得叫你老婆知道,这就妥啦,难道你不该想想这是一大幸运吗?
从今以后,你和你老婆两个人就一心一意地过日子,好好干!
打起精神来!
”
虽说,宽慰的话有些个不三不四的,尽管不包养情妇的鄙人内心也未尝不想:
活该!
但无论如何也得这样做。
写了些鄙俗的事。
在聚餐会中不乏招待(请客)之举。
某某人东山再起啦,开个祝贺会,激励会什么的;有个什么什么的啦,就送来个请帖。
发起人中有几位亲近知己,所以不好不去。
那倒也没有什么。
只是招待券上在印有会费一万五千日元处用笔勾去代而言之以“招待券”的印戳。
这可就难办啦。
因为是承蒙招待,所以不得空手前去。
必须带上一个“祝贺”的信袋什么的,这里面不能装入一万五千这样半拉咯叽的钱数,两万元这个数字在日本不吉利不易送人表示祝贺。
我沉吟一下,包了三万日元装入信封内,可却在内心打起了小鼓:
这招待会也未免太让人破费了。
日本の昔話---八人の真ん中
むかしむかし、彦一(ひこいち→詳細)と言う、とてもかしこい子どもがいました。
ある日、お城から彦一のところへ、こんな知らせが届きました。
《若さまの誕生祝いをするから、お城へ参れ、庄屋(しょうや→詳細)とほかに村の者を六人、あわせて八人。
きっかり八人で来るように》
「お城から、およびがかかるとは、ありがたいこっちゃ」
庄屋さんは、誰とだれを連れていこうか、六人をえらびだすのに苦労(くろう)しています。
しかし彦一は、その手紙を見ながら考えました。
「この、八人きっかりと、念を押しているところがあやしいな。
あの殿さまのことだ、また、なにかたくらんでいるにちがいないぞ」
さて、今日はお城にいく日です。
いわれた通り、彦一と庄屋さん、それに選ばれた六人の村人の、きっかり八人がそろいました。
庄屋さんと彦一以外の六人の村人たちは、生れてはじめてお城の中に入るので、少しきんちょうしています。
「おら、ごちそうの食べ方が、わからねえだ」
「おらもだ。
どうするべ」
すると彦一が、
「なあに、庄屋さんのまねすりゃいいだよ」
その言葉に安心した六人は、
「それもそうだな。
わはははははっ」
そうこう言っているあいだに、八人はお城に着きました。
大広間では、すでに若さまのお誕生日を祝う会が始まっています。
“有”的使用 正面の高いところに、殿さま、奥さま、若さま、そしてまわりに大勢の家来達や、お付きの人達がいます。
「若さまのお誕生日、おめでとうございます」と、庄屋さんがあいさつをしました。
八人とも大広間のすみで、小さくなっていました。
「おう、参ったか、彦一め。
うむ、きっかり八人できたな、わははは」
2、对此我做了以下的摘录:
殿さまの笑い声からすると、やはり、なにかをたくらんでいる様子です。
我们(爱)北京。
我们(爱)五星红旗。
「こっちへ参れ。
くるしゅうないぞ。
若もその方が喜ぶ。
さあ、遠慮するな」
舞 姫
原和园园和圆进和近话和画阳和洋称和秤
森鴎外
石炭をば早(は)や積み果てつ。
中等室の卓(つくゑ)のほとりはいと静にて、熾熱燈(しねつとう)の光の晴れがましきも徒(いたづら)なり。
今宵は夜毎にこゝに集ひ来る骨牌(カルタ)仲間も「ホテル」に宿りて、舟に残れるは余一人(ひとり)のみなれば。
五年前(いつとせまへ)の事なりしが、平生(ひごろ)の望足りて、洋行の官命を蒙(かうむ)り、このセイゴンの港まで来(こ)し頃は、目に見るもの、耳に聞くもの、一つとして新(あらた)ならぬはなく、筆に任せて書き記(しる)しつる紀行文日ごとに幾千言をかなしけむ、当時の新聞に載せられて、世の人にもてはやされしかど、今日(けふ)になりておもへば、穉(をさな)き思想、身の程(ほど)知らぬ放言、さらぬも尋常(よのつね)の動植金石、さては風俗などをさへ珍しげにしるしゝを、心ある人はいかにか見けむ。
こたびは途に上りしとき、日記(にき)ものせむとて買ひし冊子(さつし)もまだ白紙のまゝなるは、独逸(ドイツ)にて物学びせし間(ま)に、一種の「ニル、アドミラリイ」の気象をや養ひ得たりけむ、あらず、これには別に故あり。
げに東(ひんがし)に還(かへ)る今の我は、西に航せし昔の我ならず、学問こそ猶(なほ)心に飽き足らぬところも多かれ、浮世のうきふしをも知りたり、人の心の頼みがたきは言ふも更なり、われとわが心さへ変り易きをも悟り得たり。
きのふの是はけふの非なるわが瞬間の感触を、筆に写して誰(たれ)にか見せむ。
これや日記の成らぬ縁故なる、あらず、これには別に故あり。
嗚呼(あゝ)、ブリンヂイシイの港を出(い)でゝより、早や二十日(はつか)あまりを経ぬ。
世の常ならば生面(せいめん)の客にさへ交(まじはり)を結びて、旅の憂さを慰めあふが航海の習(ならひ)なるに、微恙(びやう)にことよせて房(へや)の裡(うち)にのみ籠(こも)りて、同行の人々にも物言ふことの少きは、人知らぬ恨に頭(かしら)のみ悩ましたればなり。
此(この)恨は初め一抹の雲の如く我(わが)心を掠(かす)めて、瑞西(スヰス)の山色をも見せず、伊太利(イタリア)の古蹟にも心を留めさせず、中頃は世を厭(いと)ひ、身をはかなみて、腸(はらわた)日ごとに九廻すともいふべき惨痛をわれに負はせ、今は心の奥に凝り固まりて、一点の翳(かげ)とのみなりたれど、文(ふみ)読むごとに、物見るごとに、鏡に映る影、声に応ずる響の如く、限なき懐旧の情を喚び起して、幾度(いくたび)となく我心を苦む。
嗚呼、いかにしてか此恨を銷(せう)せむ。
若(も)し外(ほか)の恨なりせば、詩に詠じ歌によめる後は心地(こゝち)すが/\しくもなりなむ。
これのみは余りに深く我心に彫(ゑ)りつけられたればさはあらじと思へど、今宵はあたりに人も無し、房奴(ばうど)の来て電気線の鍵を捩(ひね)るには猶程もあるべければ、いで、その概略を文に綴りて見む。
余は幼き比(ころ)より厳しき庭の訓(をしへ)を受けし甲斐(かひ)に、父をば早く喪(うしな)ひつれど、学問の荒(すさ)み衰ふることなく、旧藩の学館にありし日も、東京に出でゝ予備黌(よびくわう)に通ひしときも、大学法学部に入りし後も、太田豊太郎(とよたらう)といふ名はいつも一級の首(はじめ)にしるされたりしに、一人子(ひとりご)の我を力になして世を渡る母の心は慰みけらし。
十九の歳には学士の称を受けて、大学の立ちてよりその頃までにまたなき名誉なりと人にも言はれ、某(なにがし)省に出仕して、故郷なる母を都に呼び迎へ、楽しき年を送ること三とせばかり、官長の覚え殊(こと)なりしかば、洋行して一課の事務を取り調べよとの命を受け、我名を成さむも、我家を興さむも、今ぞとおもふ心の勇み立ちて、五十を踰(こ)えし母に別るゝをもさまで悲しとは思はず、遙々(はる/″\)と家を離れてベルリンの都に来ぬ。
余は模糊(もこ)たる功名の念と、検束に慣れたる勉強力とを持ちて、忽(たちま)ちこの欧羅巴(ヨオロツパ)の新大都の中央に立てり。
何等(なんら)の光彩ぞ、我目を射むとするは。
何等の色沢ぞ、我心を迷はさむとするは。
菩提樹下と訳するときは、幽静なる境(さかひ)なるべく思はるれど、この大道髪(かみ)の如きウンテル、デン、リンデンに来て両辺なる石だゝみの人道を行く隊々(くみ/″\)の士女を見よ。
胸張り肩聳(そび)えたる士官の、まだ維廉(ヰルヘルム)一世の街に臨める (まど)に倚(よ)り玉ふ頃なりければ、様々の色に飾り成したる礼装をなしたる、妍(かほよ)き少女(をとめ)の巴里(パリー)まねびの粧(よそほひ)したる、彼も此も目を驚かさぬはなきに、車道の土瀝青(チヤン)の上を音もせで走るいろ/\の馬車、雲に聳ゆる楼閣の少しとぎれたる処(ところ)には、晴れたる空に夕立の音を聞かせて漲(みなぎ)り落つる噴井(ふきゐ)の水、遠く望めばブランデンブルク門を隔てゝ緑樹枝をさし交(か)はしたる中より、半天に浮び出でたる凱旋塔の神女の像、この許多(あまた)の景物目睫(もくせふ)の間に聚(あつ)まりたれば、始めてこゝに来(こ)しものゝ応接に遑(いとま)なきも宜(うべ)なり。
されど我胸には縦(たと)ひいかなる境に遊びても、あだなる美観に心をば動さじの誓ありて、つねに我を襲ふ外物を遮(さへぎ)り留めたりき。
余が鈴索(すゞなは)を引き鳴らして謁(えつ)を通じ、おほやけの紹介状を出だして東来の意を告げし普魯西(プロシヤ)の官員は、皆快く余を迎へ、公使館よりの手つゞきだに事なく済みたらましかば、何事にもあれ、教へもし伝へもせむと約しき。
喜ばしきは、わが故里(ふるさと)にて、独逸、仏蘭西(フランス)の語を学びしことなり。
彼等は始めて余を見しとき、いづくにていつの間にかくは学び得つると問はぬことなかりき。
さて官事の暇(いとま)あるごとに、かねておほやけの許をば得たりければ、ところの大学に入りて政治学を修めむと、名を簿冊(ぼさつ)に記させつ。
ひと月ふた月と過す程に、おほやけの打合せも済みて、取調も次第に捗(はかど)り行けば、急ぐことをば報告書に作りて送り、さらぬをば写し留めて、つひには幾巻(いくまき)をかなしけむ。
大学のかたにては、穉き心に思ひ計りしが如く、政治家になるべき特科のあるべうもあらず、此か彼かと心迷ひながらも、二三の法家の講筵(かうえん)に列(つらな)ることにおもひ定めて、謝金を収め、往きて聴きつ。
かくて三年(みとせ)ばかりは夢の如くにたちしが、時来れば包みても包みがたきは人の好尚なるらむ、余は父の遺言を守り、母の教に従ひ、人の神童なりなど褒(ほ)むるが嬉しさに怠らず学びし時より、官長の善き働き手を得たりと奨(はげ)ますが喜ばしさにたゆみなく勤めし時まで、たゞ所動的、器械的の人物になりて自ら悟らざりしが、今二十五歳になりて、既に久しくこの自由なる大学の風に当りたればにや、心の中なにとなく妥(おだやか)ならず、奥深く潜みたりしまことの我は、やうやう表にあらはれて、きのふまでの我ならぬ我を攻むるに似たり。
余は我身の今の世に雄飛すべき政治家になるにも宜(よろ)しからず、また善く法典を諳(そらん)じて獄を断ずる法律家になるにもふさはしからざるを悟りたりと思ひぬ。
余は私(ひそか)に思ふやう、我母は余を活(い)きたる辞書となさんとし、我官長は余を活きたる法律となさんとやしけん。
辞書たらむは猶ほ堪ふべけれど、法律たらんは忍ぶべからず。
今までは瑣々(さゝ)たる問題にも、極めて丁寧(ていねい)にいらへしつる余が、この頃より官長に寄する書には連(しき)りに法制の細目に拘(かゝづら)ふべきにあらぬを論じて、一たび法の精神をだに得たらんには、紛々たる万事は破竹の如くなるべしなどゝ広言しつ。
又大学にては法科の講筵を余所(よそ)にして、歴史文学に心を寄せ、漸く蔗(しよ)を嚼(か)む境に入りぬ。
官長はもと心のまゝに用ゐるべき器械をこそ作らんとしたりけめ。
独立の思想を懐(いだ)きて、人なみならぬ面(おも)もちしたる男をいかでか喜ぶべき。
危きは余が当時の地位なりけり。
されどこれのみにては、なほ我地位を覆(くつが)へすに足らざりけんを、日比(ひごろ)伯林(ベルリン)の留学生の中(うち)にて、或る勢力ある一群(ひとむれ)と余との間に、面白からぬ関係ありて、彼人々は余を猜疑(さいぎ)し、又遂(つひ)に余を讒誣(ざんぶ)するに至りぬ。
されどこれとても其故なくてやは。
彼人々は余が倶(とも)に麦酒(ビイル)の杯をも挙げず、球突きの棒(キユウ)をも取らぬを、かたくななる心と慾を制する力とに帰して、且(かつ)は嘲(あざけ)り且は嫉(ねた)みたりけん。
されどこは余を知らねばなり。
嗚呼、此故よしは、我身だに知らざりしを、怎(いか)でか人に知らるべき。
わが心はかの合歓(ねむ)といふ木の葉に似て、物触(さや)れば縮みて避けんとす。
我心は処女に似たり。
余が幼き頃より長者の教を守りて、学(まなび)の道をたどりしも、仕(つかへ)の道をあゆみしも、皆な勇気ありて能(よ)くしたるにあらず、耐忍勉強の力と見えしも、皆な自ら欺き、人をさへ欺きつるにて、人のたどらせたる道を、唯(た)だ一条(ひとすぢ)にたどりしのみ。
余所に心の乱れざりしは、外物を棄てゝ顧みぬ程の勇気ありしにあらず、唯(たゞ)外物に恐れて自らわが手足を縛せしのみ。
故郷を立ちいづる前にも、我が有為の人物なることを疑はず、又我心の能く耐へんことをも深く信じたりき。
嗚呼、彼も一時。
舟の横浜を離るるまでは、天晴(あつぱれ)豪傑と思ひし身も、せきあへぬ涙に手巾(しゆきん)を濡らしつるを我れ乍(なが)ら怪しと思ひしが、これぞなか/\に我本性なりける。
此心は生れながらにやありけん、又早く父を失ひて母の手に育てられしによりてや生じけん。
彼(かの)人々の嘲るはさることなり。
されど嫉むはおろかならずや。
この弱くふびんなる心を。
赤く白く面(おもて)を塗りて、赫然(かくぜん)たる色の衣を纏(まと)ひ、珈琲店(カツフエエ)に坐して客を延(ひ)く女(をみな)を見ては、往きてこれに就かん勇気なく、高き帽を戴き、眼鏡に鼻を挾ませて、普魯西(プロシヤ)にては貴族めきたる鼻音にて物言ふ「レエベマン」を見ては、往きてこれと遊ばん勇気なし。
此等の勇気なければ、彼活溌なる同郷の人々と交らんやうもなし。
この交際の疎(うと)きがために、彼人々は唯余を嘲り、余を嫉むのみならで、又余を猜疑することゝなりぬ。
これぞ余が冤罪(えんざい)を身に負ひて、暫時の間に無量の艱難(かんなん)を閲(けみ)し尽す媒(なかだち)なりける。
(3)、()渐渐()。
隣の住人
新藤 兼人
歳月がながれて三十数年ぶりだった。
新聞社の取材に応じて、京都下鴨宮崎町、鴨川のほとりを訪れた。
新聞社の夕刊には、青春の地を訪ねる連載があった。
私にもその注文が来たのである。
四条大橋の西側たもとで待ち合わせることにした。
私は東京から、新聞社の人は大阪からである。
小雨が降っていた。
約束の十時前に新聞社の車がきた。
その界隈の町並はほとんど変っていない。
銭湯も郵便局も小学校もそのままだ。
変っているのは松竹下加茂撮影所が、某会社の倉庫になっていることだ。
その小路は、撮影所のすぐ近くにあった。
通りで車を下りて、小路へはいっていくと二軒長屋がある。
この一軒に私は、昭和十七年春から十八年の秋まで住んだ。
二階建ての長屋だったが、これ以上小さくは作れないだろうと思えた。
階下が二畳と四畳半、二回が三畳と六畳、京都式の玄関から裏へ通し土間があって、二坪ほどの植木のない庭があった。
むかしのままだった。
時のながれが急に消えた。
玄関の格子戸も二階の窓も少しも変っていない。
ただ、二軒がそのまま右へこころもちかしいでいた。
私が住んでいたのは向かって左である。
玄関格子戸に手をかけたが開かない、見れば鍵がかかっている。
隣の家の格子をあけて声をかけた。
主婦が奥の四畳半から玄関の二畳へ現れた。
私の家と同じ間取りなのである。
「隣にいた新藤ですが」
ああ、といったきり、主婦はその場に立ちすくんだ。
丸顔で小柄な人だった。
化粧をしないのに白い顔だった。
それがそのままである。
変ったのは私であろう、白髪なのだ。
「お久しゅうございます」
「ほんまにもう、お懐かしゅうございますな」
「あの時はお世話になりました」
「なんやらもう、夢を見てるようどすな」
主婦の目には涙が光った。
東京から京都へ移ったのは昭和十七年四月である。
尊敬していた溝口健二監督に師事するためだった。
所属していた東京の映画会社をやめて、見知らぬ京都へ移るのは勇気のいることだった。
私一人ではとてもふみきれなかったであろう、妻がすすめてくれたのである。
私は二十九歳、妻は二十五歳、結婚して二年目だった。
私は売れないシナリオを書いているシナリオライターだった。
自分の才能を信じた時期があった。
間もなく壁にぶっつかる。
才能を疑う季節がやってきた。
周囲がみな厚い壁になる。
脱出しなければ....たった一本いいシナリオを書ければそれで事は片づくのだが、それが出来ない。
京都へ移ったのは脱出の試みだった。
世帯道具は何もなかった、東京へ置いてきたのではない、はじめからそれらしき物を持たなかったのである。
私たちは貧しかった。
古机と蒲団があるだけだ、狭い長屋ががらんとしていた。
下鴨の町も小路の中の人も、見知らぬ他人であった。
隣の若い細君だけが親しい声をかけてくれた。
ご主人は市役所へ勤めているということで、早い時間に出かけ、夜は遅かった。
家計は決して豊かには見えなかったが細君の顔はいつも明るかった。
主人を送り出すと掃除である。
古びた表の格子に丹念な雑巾がけをした。
夏冬つねに和服で、夏は洗いざらしの浴衣に糊を厚くつけて、ぴんと突っ張ったのを好んで着ていた。
それはいかにも京女らしい風情だった。
私は、溝口健二監督に読んでもらうためのシナリオをいく本も書いたが、ついにものにはならなかった。
外には毎日のように出征兵士を送る歌が聞こえ、また戦死の遺骨を迎える行列があった。
私と妻は、その歌や、その沈黙を、家の中で身をひそめて、息を殺し聞いた。
私たちは大きく流れる時の中で、ただ抱き合っているほかはなかった。
妻が、突然、血を吐いて倒れたのは一年たった初夏だった。
結核にかかったら死を待つほ