中日お茶文化の対照的研究中日茶文化对比.docx
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中日お茶文化の対照的研究中日茶文化对比
中日茶文化对比
学院名称:
外国语学院
专业名称:
日语教育
年级班别:
2007级2班
姓名:
指导教师:
2011年5月
中日お茶文化の対照的研究
学院学部:
外国語学院
専 攻:
日本語学部
年 級:
2007級2組
氏 名:
指導教師:
2011年5月
謝辞
本論文は河南師範大学の外国語学部の日本語学部の先生より論文に関する有意義なお意見を頂戴しました。
孫士超先生と横山先生のおかげで、やっとこの小論文ができ上がりました。
懇切丁寧なご指導を下さった指導先生に心から深く感謝を表したいと思います。
経験が少しもない私にとって、この論文は難しいものです。
間違いがすごく出ましたし、聞きたいこともいっぱいありました。
親切な先生方はとても親切な指導をしてくれますし、暖かく励ましてくれました。
孫士超先生と横山先生の指導なくしては、この論文を執筆でもできなかったと思います。
感謝の気持ちは言葉では尽くせない次第であります。
すごくいい先生のおかげで、視野も広げて、知識も深まれて、いろいろ勉強になりました。
ここに記して感謝申し上げます。
またこの四年間に親切に教えてくださった日本語科の先生かたに心から感謝いたします。
どうもありがとうございました。
摘要
茶起源于中国,从药用,食用,饮用开始到后来吸收儒家,佛家,道家的思想形成独特的文化。
茶文化随着中国文明的发展,经历了萌芽,形成,繁荣到普及的阶段。
唐代,提出了茶道的概念和基本思想,后代,遵循着茶道的基本精神,发展形成了各种各样的茶文化艺术形式。
唐宋时期迎来了茶文化的发展期和繁荣期,这两个时期也是日本派遣留学僧和遣唐使的高潮期,日本的饮茶习惯也在这个时期随之形成,可以说日本茶文化随着中国茶文化的发展而发展。
随着时间的推移,日本的茶文化逐步成熟。
日本茶文化结合日本的传统文化,具备日本民族独特的性格和气质,把中国文化中儒家,佛家,道家的精神融入其中,经过珠光,绍鴎和千利休三位茶道大家的数年修行,最终形成。
中日茶文化有许多的联系和共性,但由于两国民族性格和文化内涵的不同,最后比较总结其不同点,说明茶文化是两国都拥有的具有本国特色的文化。
关键词:
茶 起源 文化 発展 比較
要旨
茶は中国で生まれ、初めて薬用、食用、飲用から、儒、仏、道の思想を吸収して、独特な文化となった。
茶文化は中国文明の発展につれて、萌芽、形成、繁栄そして普及してくる。
唐の時代に「茶道」の概念と基本の思想を提出して、後世、「道」の基本の精神に従って、いろいろな茶文化の芸術形式を形成してきている。
唐、宋時代、中国のお茶の発展期と繁栄期を迎えて、この二つの時期は日本留学僧と使者の派遣の最盛期で、日本の飲茶の習慣が次第に形成されたのもこの時期で、日本の茶文化の歴史は中国の茶文化の歴史に沿って発展してきたと言える。
時間の移り変わりと共に、日本の茶文化がますます成熟してきた。
それは日本の伝統文化と結びついて、日本民族の独特な性格と気質を備わって、中国文化の儒、仏、道の精神を日本茶文化の中に融け合って、珠光、紹鴎、千利休三人の茶道名家が数年間修業して、成し遂げたのだと思う。
日中茶文化はいろいろな共通性があるが、両国の民族性格と文化内包が違って、その差異点をまとめて比較する。
茶文化は両国のもので、各自の特色があるのであると思う。
キーワード:
茶 起源 文化 発展 比較
目次
はじめに
中国はお茶の原産地でお茶の故郷と言われている。
お茶を飲むことはずっと中国人の生活習慣の一種になっている。
人々が言う通りに、毎日の七事は柴、米、油、塩,醤油、酢、お茶など七つのことから始まる。
この諺から、お茶は人々の日常生活の中の不可欠な必須品だということがわかる。
同様に日本人の日常生活にも重要な構成部分である.中日両国は一衣帯水の隣国で、お互いに交流する歴史は長く持って、文化の面の相互影響にも悠久な歴史がある。
お茶はずっと早くから中国から日本至る全世界へ伝えられた。
特に、お茶は日本の伝統と宗教のことに結びついて、日本の特有の茶道が創造去れた。
今,日本の茶道は厳格な規範と独特な精神で、世界のお茶文化の主流になっている。
そして、多くの中国人はお茶を飲むことは中国の習慣で、お茶の文化は外国特に日本のものだと認めている。
それで,我々はお茶の起源と中日のお茶の文化の発展からその異同を対比することについてもっと観客的な事実を探求しなければならないと思っている。
1.お茶の起源
中国は茶の木を最も早く発見し、利用した国であり、お茶の祖国と称されている。
「茶者,南方之嘉木也」紀元200年頃、『尔雅』に野生の茶の木に関与する記載がある。
「茶之為飲発乎神農氏」陸羽の『茶経』にそう述べている。
紀元前2700年頃、中国古代伝説中の帝王であった炎帝神農は医術の神と言われ、人々に火の使い方や食べ物の採集、料理することなどを教えた。
ある日,神農が釜で水を沸かしていたところ、数枚の木の葉が釜の中に入り、これを一緒に煮出すと香りが良く,水色も美しく、さらに飲むと味も美味しく、心も清々しいということがあった。
人々にこれを伝授した。
実は、これが茶の葉であったと言われている。
最初、茶は我が国の雲南と貴州地区に成長したが、最も早くお茶という植物を認識したことを記載したのが文明の発祥地の中原地区である。
お茶に関する最古の資料として、前漢の宣帝の時代の王褒が奴隷売買の契約書を基に著した『僮约(前59)』という書物に「武陽買茶(武陽で茶を買いなさい)」、「烹茶尽具(茶を煮る道具を整頓しなさい)」といった記載がある。
茶樹の起源に関しては、近年来研究の進歩から、大体中国をその原産地とすることにほぼ異論はないようである。
そういった中で、橋本実氏はおおよそ茶樹の起源の中心地を雲南、四川に特定している。
中国はお茶の命名、お茶についての知識,茶の木の栽培、茶の葉の加工技術を世界に伝えたのであり、世界の茶は直接あるいは間接に中国の茶と緊密な連係がある。
2.中国のお茶
2.1中国お茶の歴史
晋代、南北朝茶文化の萌芽。
統治階級と文士はお茶を利用して、素朴な生活習慣を提唱して、士大夫たちはお茶を礼として、茶文化の発展を促進した。
唐代の茶文化の形成。
唐代は封建社会の繁盛期で、経済の発展、消費の普及につれて、茶文化の形成をよく推進した。
780年、陸羽は『茶経』を著したことは,唐代お茶文化形成のシンボルである。
それはお茶の自然と精神の二重性を含めて、飲茶芸術を研究して,儒、道、仏を茶文化に引き入れて、中国のお茶は精神の境界にまで高まっていた。
唐代茶文化の形成は禅の興隆としきりに関係している。
この時代、僧侶は飲茶の風習を重視し、茶の礼法を制定して、茶屋を設えて、飲茶活動を行うということがあった。
宋代茶文化の栄え。
宋代の茶は大きい発展がすでにあって、茶文化の発展も促進して、文士と仏教徒に専門飲茶社会団体を顕わしている。
宋太祖は特にお茶が好きで、宮廷に茶の機関を成立した。
つきましては下層社会の茶文化はさらに活発で、民間の「闘茶」の風俗は起きて、お茶を沸かす方法から抹茶を立てる方法に成り変わって、採集、加工などいろいろな変化が起きた。
明、清茶文化の多彩。
茶の品種が増えて、お茶を入れた芸事は以前と違って、散茶は流行して、茶器の様式、素地、紋様は多種多様になっている。
2.2中国の茶道
中国がお茶を用いてきた歴史はすでに四千年あまりになっている。
中国人はお茶を飲むのは最初薬用、後に日常の飲み物になったのである。
唐代になると、お茶専門家の陸羽が我が国の製茶、飲茶、さらに茶道の精神を形成するための基礎を築いた『茶経』を書き著した。
即ち、これは中国の茶文化が薬用から引用に、実用から精神文化になることの転換点である。
『茶経』の中で、「精、行、倹、徳」との四字は中国茶道の本質として提出された。
茶道という言葉は中国で千年以上を使ってきた。
最も早くこの語の使用例は唐代の皎然の詩『飲茶歌诮崔石使君』である。
この詩の一部を引用して、「三飲便得道,何必苦心破煩悩」、皎然はこの詩を「孰知茶道全爾真」という句で結んでいる。
ここで「得道」という言葉がお茶を飲むことによって煩悩を払い、得道に至る、という考えである。
当然、それは「道の顕現」である茶となるであるだろう。
「全爾真」は『碧巌録』(36則頌の著語)に見える「処々全真」と同意である。
得道の境地で行われる、道の顕現のお茶、「全爾真」,「処々全真」の茶、これを皎然は「茶道」と名付けたのである。
いろいろな資料によって、実はこの皎然と陸羽は最も親しい知己で、忘年交であった。
皎然は僧侶であり、陸羽は在家の人で、二人はお茶について共通性があって、端的に言えば、皎然の茶が「茶道」であったのと同じく陸羽の茶も「茶道」であったと考えている。
それは日本茶道の先駆であったと思う。
中国のお茶文化は儒、道、仏の精華を吸収して、「中庸」、「禅と茶の合一」、「天人合一」を重視して、自分の精神を形成し、茶の「道」になっている。
中国の文化は儒家思想と中庸を基礎として、人と人、心と心、人と自然などの関係を調和することを強調している。
そして、この民族精神も茶道の中に表現される。
そのため、中国の茶道は自然美を高く評価して、人を主体として、和を提唱して、身心の享受を追求するということである。
「茶道」はお茶を仲立ちとして、生活する中での儀礼なので、、精神の修養の一種の方式だとも思われて、茶を入れること、評価すること、そして飲茶することを通じて、友誼を増進し、審美の心を納得することは、礼儀作法を学ぶ上で、とても役立つ一種の睦まじくして楽しい芸術となるである。
2.3現代中国の茶芸
時代の発展につれて、茶の文化は唐、宋の時期に盛んであったが、茶道は文化の主流を引率することができないのは中国の広くて深く文化の陰の下で成長するのである。
そのほか、中国で「道」は儒、道、仏の思想の核心、究明を表す語として重い意味を込めてもちいられてきた。
特に、人は如何に生きるべきかという、人にとっての最も大切な問題を考えるときには、頻繁に「道」の字が用いられる。
そして、「茶道」という言葉も、軽率に使っていい言葉ではないと思う。
こういういろいろな原因で、「茶道」という言葉は中国人の意識の中からだんだん消え去ってきている。
しかし、お茶の文化は何時までも中国文化の中で存在して、現代人の生活に影響を及ぼすということである。
中国では、地域によって、民族によって、風土が違って、多種多様な現代茶芸を形成してきた。
中国の茶芸は茶道の真髄「真、善、美」を継承して、茶室の設置、茶の具、茶の葉、水の品質などの選択を通じて、一連な作法を借りて、一種の精神境界を造って、人々の心を楽しませるということである。
中国の茶芸には「品」が大切なことにして、お茶を飲むこと自体を重んじる。
全部の準備はお茶を飲む人に奉仕して、人の主体の享受が一番重要である。
中国の茶文化は時代の特徴に適応して、素晴らし生活を追求する理念に基づいて、現代人の日常生活に融合して、心と精神のやり方を深めて、高めるということである。
3.日本の茶道
茶道は中国で生まれ、日本で花開き実を結んだ、優れた生活文化である。
茶道の語が文献に初めて現れるのは唐代であるが、すでに唐代に於いて、茶道は単なる飲茶風俗の域から脱した高度な精神文化であった。
陸羽の『茶経』がそのことを輝かしく証明している。
やがて、茶道は日本に伝来し、日本の文化的伝統と結合して新たな展開を遂げ、深遠な哲理と豊な芸術表現とを併せ具えた総合的文化体系として大成された。
時代の変遷につれて、大陸茶文化の新しい形式は次第に日本茶文化に連動していた。
日本茶文化の発展は中国大陸茶文化の発展によって、発展してきたといっても過言でもない。
3.1お茶の伝入
唐代は茶道の形成期で、日本から多くの遣唐使が中国へ派遣された。
最初、奈良時代に日本の僧侶最澄と弘法大師空海が唐へ留学して仏教を研究して、帰国した時、中国から団茶法を移入されて、その時、喫茶の習俗が始まったという謂れがある。
宋、元の時代に中国に来た日本の僧侶栄西は禅とお茶を日本に伝えて、二度は宋の飲茶文化とその効果について総括的な研究をして、914年著作『喫茶養生記』という本を成した。
平安末期に栄西は中国での見聞によって、その時の抹茶の点茶法を記録した。
南北朝期に武士の間に闘茶が行われ、茶は民間にも普及した。
日本茶道の創立に基礎を打ち立てるということである。
3.2茶道の発展
3.2.1書院臺子の茶と侘び茶
周知のように、日本の文化は早い時代から中国文化に大きな影響を受け続けてきている。
お茶についてもそうであった。
最初、日本のお茶はただ天皇、貴族、高級僧侶などの上層社会がt唐風先進文化を模倣した風雅的なことに過ぎない。
15世紀から16世紀にかけて、日本では茶の二つの大きな流れが形成して、一つは「書院臺子の茶」、今一つは「侘び茶」と呼ばれた。
当時、上流階級では高価な中国から舶来した唐物を鑑賞するために、書院を場所として、道具を臺子の上に置く茶、これが「書院臺子の茶」と呼ばれたのことである。
これに対して、安価で質素で、悲しく寂しい気持ちで行う茶が「侘び茶」の始まりである。
そのとき、主観的にも客観的にもが一流の茶で「侘び茶」は二流の茶だったである。
茶道は「書院臺子の茶」に発展するまで芸道成立の影響を受けたが、中国の茶道文化を主導として、「侘び茶」の成立と発展にも中国の茶、特に仏教と禅宗は大きく影響を与えたが、その後、日本の伝統文化が深く入り込んで、民族化してきている。
3.2.2侘び茶と珠光、紹鴎
ところが時が経つにつれて、「侘び茶」は一流な茶と見られるようになってきた。
「侘び茶」を行う人たちは、茶の効用を重視し、高尚、深遠、清雅の心で茶をするように、高い精神性を求めていた。
まず「侘び茶」を創始して茶道の開祖となった珠光(1423-1502)。
伝書によって、珠光は十一歳の時、奈良の寺で出家したといわれている。
幼名は茂吉で、珠光は僧としての名である。
その後、闘茶の遊びに耽り、二十五歳頃に還俗した。
それから、京都に上って、茶を学び、大徳寺の一休宗純に参禅して、禅院での茶の湯に点茶の本意を心得して、茶禅一味の境地に至って、さらに、珠光は儒教と仏教も加味し、ここに初めて茶の湯の中に精神性が取り込んで、儀式や作法を重んじる茶から、茶を行う人の心を重視する「道」としての「侘び茶」が形成し始まったのである。
珠光は質素な美しさを推賞して、飲茶は日本の茶器を使うべきだと主張して、茶の道で一番大切なことは「我慢我執」の心を捨てるという認識である。
次に侘び茶を発展させた紹鴎(1502-1555)。
紹鴎は初めて和歌を学び、また禅宗を学習していた。
そして、紹鴎が茶を学んでいる時、和歌と禅の影響が入っている。
珠光と同様に、茶室や茶道具の改革を行い、紹鴎の説く「侘び」の基本は慎み深く奢らず、我慢我執を捨てることが大切であると言われている珠光の思想と共通して、天理に従い、天人合一の自己になるということである。
3.2.3千利休と茶道大成
安土桃山時代の茶人、茶道の集大成者利休(1522-1591)。
堺の生まれ、通称与四郎、宗易と号す。
はじめ茶の湯を北向道陳に学び、のちに武野紹鴎に師事した。
珠光と紹鴎の跡に受け継いで、心のやり方が大切であるとも考えていた。
彼は堺で、「和、敬、清、寂」に基づく質素な草庵の侘び茶方式を完成した。
草庵風の茶室を完成し、朝鮮の茶椀や日常雑器を茶道具に取り入れ、また楽茶碗の制作、指導などをした。
この四文字とは四つの規則である。
「和、敬」は主人とお客が仲良く交際し、お互いに尊敬し合い平和の意味を強調する。
「清、寂」は茶室環境が静寂、優雅という意味である。
茶室は日本伝統の和室の中に簡単で古めかしく設けられている。
そのほか、七つの規範がある。
それらはお茶を注ぐ複雑な儀式のことで、お茶を点てるのには濃淡の区別があり、お茶の温度は季節に従って変え、炭を添加したり、お茶を煮るには火加減を身に付けていなければならないことなどである。
茶と禅の精神の合一を主張し、茶室で心の静けさを求めることは日本茶道の真髄だと思われる。
茶道は中国に起源するが、日本に発展して、独自の特色を持つ日本茶道が「美しい宗教」を形成した。
日本の茶道は「お茶と禅の一体」を強調して、中国のお茶文化の一部分の内容を吸収して、複雑なプログラムという儀式を通して、苦しく寂しい境地を追求することであり、調和を取れて、情操薫育し、さらに人々に平和共処を進め、お互いに尊敬し、互いに愛し合うことを進めて、質素であるが、精神修養を大切とすることである。
中国文化の儒、道、仏など諸家の思想が日本伝統文化生活の中に融合して、日本茶道成り遂げたということである。
つまり、茶道文化は中日両国の相互補強により形成されたものだ。
時間の経つにつれて、のち利休の子孫は表、裏、武者小路の三千家に分かれた。
また、古田織部、本阿弥光悦、小堀遠州、片桐石州、山田宗辺、川上不白らが現れ、家元制度が確立である。
いろいろな形式があるが、その基本の思想は大同小異である。
日本の茶道は内を重く見て、心の奥底を内省して、禅宗の精神を覚悟するもので、宗教、哲学、美学融合一体化する文化芸術活動となるのである。
4.中日茶文化の比較
周知のように、茶道は中国から日本に伝えられ、、中日両国の国情は異なり、国民の心理と性格は異なり、相違な文化認識があるのは当たり前だとされている。
そして、時間の経過、社会の発展につれて、両国の茶文化もことごとに同じではなくなっていた。
両国の茶文化のつながりは前文に述べていたが、今、両方の相違点を中心に比較したいと思う。
源と流の差別
中国は茶文化の起源地、唐の陸羽は開創したから千年間の発展を経て、儒、道、仏の思想を吸収して、文人雅士の生活に融合して、茶は文学と芸術と結びついて、文化の一種象徴である。
それだけでなく、中国茶文化は大衆の生活の中に流行って、飲茶の風習は後世にまで代々伝わる。
日本の茶道は支流で、唐、宋の時代から中国の茶芸と茶道を学ぶことに基づいて、禅宗の茶文化において一つの茶文化流派が創立したである。
その後、日本の本土文化と結合して、特有の茶文化になっている。
文化の起点の差別
中国人はお茶を飲むこと初めは楽用から、後に日常の飲み物になったという漫長な発展過程を経て、「実用」から「精神文化」に昇華する過程と言ってもいいである。
でも唐の時代から、日本へ伝えられていたお茶は先進の精神文化として、そして、日本茶文化の発展は「精神文化」から始めて伝播するということである。
参与者の差別
中国でお茶の栽培から飲用まで、その参与者は人民大衆である。
日本は厳しい世襲制度に遵奉して、身分制度の区分は格別鮮明で、お茶は高級の文化産物として、上層社会だけ盛んになった。
これも日本の貴族と僧侶は唐物を好んで、唐物が一番素晴らしいという心理に係わりがあることである。
茶文化の内包の区別
中国の茶道は儒、仏、道の思想を取り入れて、融合して、現実生活に深く根差しているが、また現実生活を超越する総合文化芸術形式である。
物質活動として、茶道は茶芸と品茶の過程で、精神活動として、心の享受と美の哲学の探求である。
もっと重要なのは茶道は最終に精神境界に昇華して、煩瑣な装飾と形式に拘らないようになって、飲茶することは一番重要で、人が茶道活動の中心として、茶文化の発展の規定と見られるということである。
日本茶道は中国禅宗の「苦と寂」を強調し、貴族の参与と身分制度の厳格さの影響を受けて、悟道の心境と厳密の作法を追求しすぎる。
日本は島国で、人口が増加する一方、物質が乏しくなって、人たちの生存は容易なことではない。
そして、日本人は苦しく寂しい環境の中に頑張らなければならない。
人間関係を調和するために、「我慢」という意識を強調するである。
例えば、古典茶室の入り口が低く、身を屈めて入ることは日本人の「隠忍」精神の表現である。
草庵風の茶室も人が苦しみと難儀を忘れないということに注意を与えるである。
明らかに、日本茶道の目的は真に飲茶することではなくて、飲茶の方式を通じて、人々に対して一種の思想教化、現実生活の中に生存し続けることに必要な心理状態を養うということである。
美の意識の差別
中国の茶道は道家と儒家の「禅と茶の合一」、「中庸」を前提として、「調和、静か、平衡、上品」という環境を重視している。
安静の茶室で安逸な心情で完美な茶器を使って、飲茶することを行うである。
日本の茶道は不均衡を要求して、天然の美、欠陥の美、調和の美、瞬間の美を強調する。
例えば、窓が不対称を設置し、茶碗は粗末のが上品で、室内は調和するが室外は緊張な生活で、そのほか、「一期一会」の理念に従って、厳粛な態度で茶事を行うということである。
影響の範囲の差別
中国の茶道の影響は広く、内容が豊富で、思想の深刻で、各地区、各階層の人々は一つの角度から、自分の趣を基づいて、茶芸の形式と思想を選んで、現代茶文化の発展をさらに推進してきている。
中国茶文化は中華民族全体の生活中に融合している。
日本の茶道の内容が単一で、作法と礼法は非常に複雑で、一般大衆にとって難しすぎて、一部分の群体の中で流行っている。
終わりに
以上、四章に分けて、中国茶文化と日本茶文化の発展及びに中国茶文化の影響について述べて、最後に中日茶文化の差別をまとめた。
日本茶道と中国茶文化は同源であるが、表現形式が違うである。
その発展史から見て、ずっと中国と関係がある。
精神から見ると、儒、道、禅といろいろな所が共通している。
そして、茶文化は中国で起源するだけでなく、中国で発展し続けて、今も国民の日常生活の中に融合して、文化は飲茶活動の中に表現して、現代の大衆茶芸を形成している。
日本茶道は中国茶文化の補足として、東方文化の中で「茶道」文化は大きく影響力を与えるである。
本論文は中日の茶文化の発展と差別から、中国茶文化は日本茶道への影響と各自の文化特色について述べてきた。
茶文化の内容は深く、広く、形式は多様多彩である。
自分の文化能力が不足によって、茶文化についての学習が不充分で浅薄だと思う。
私の見方では、中国の茶文化の中にもっと日本式の規則と美しさを吸収し、特定な形式を中国茶芸に表現していく。
一方、日本の茶道の中の実行し過ぎる厳格さを改善して、もっと多く人情と実用になれば、きっと東方茶文化を一層に発展することができると思う。
参考文献
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