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中国茶文化と日本茶道の比较

中国茶文化と日本茶道の比較

始めに

周知のように、中国と日本は一衣帯水の隣国で、昔から日本が中国の先進文化を取り入れた。

それで、両国は政治、経済、文化等の幅広い分野で深い繋がりがある。

そして、茶道は長い歴史の中で文化交流の一つ分野として特別な地位を占め、社会文化に大きな影響を与えている。

しかし、中国茶道は日本茶道とは、かなり違いがある。

しかし、その違いはいつから出たか、またそれぞれどんな社会的な役割を担っていたか。

両国の茶道の歴史と特徴を比較することが必要だと思う。

一、中国茶文化について

中国は茶の故郷であり、「詩経」によると、お茶が人々の生活に入ったのは中国の西周までに遡ることができる。

そのとき、お茶は飲用として使われたのではなく、食用、薬用、祭品として用いたようだ。

そして、紀元前59年西漢の王褒という人が記された『僮約』と文献には、飲茶という習慣がその時始まったと書いてある。

しかし、本格的に煮茶、飲茶専用の茶器でお茶を楽しむのは唐の時代からだ言われている。

特に中期の唐において中国茶文化が飛躍的な発展を遂げたと言えよう。

「茶始有字、茶始作書、茶始辺銷、茶始収税」という記載が分かりやすくまとめている。

それは陸羽のおかげだといえる。

彼は二十六年をかけて、32か個お茶の産地を巡ったうえで、『茶経』という大作を書いていた。

その本は十部分に分けられて、お茶の源、茶道具、作り方から述べるだけではなく、お茶の水質、飲み方、煮方、環境などの方面を詳しく説明して、まさに茶のバイブルと言える書物である。

そのあと、飲茶という単純な行為を精神的で美意識的な文化学にして、茶文化体系も創立しはじまった。

そのとき、「煎茶法」が陸羽によって考案された新しい楽しみ方である。

まず、餅茶を朱色になるまで炙り、それから砕き、水が沸いた時に少し塩を加えるか、全く入れないかのシンプルな煎れ方だ。

そして、水を沸かしてから粉末を投入し、かき混ぜながら3度目の沸騰時に止めました釜に入れ水を出す。

特に、宋代に入って、煎茶のほか、点茶も生まれた。

そのうえ、唐からあったと言われる「斗茶(闘茶)」が宋で非常に盛んに行われて、「湯色」、「湯花」に関する勝負の記録がある。

そういえば、そういうことは今日本茶道のと些さか同じだ。

また、茶器の良否を競うこともあった。

その後、元、明清三朝を通じて、お茶の作り方が数回変わられて、最後今の茶道が確立された。

中国の飲茶歴史を概観すると、二千年以来中国茶文化が中国の伝統文化とずっと相互作用し続いている。

それと対して、中国茶道が唐代において急に禅と盛んに相互に吸収と促進したと思う。

だが、「興於唐、盛於唐」という唱えに対抗するように中国茶道は「興於唐朝、盛在宋代」(茶は唐に興り、宋に盛んになる)という説もある。

一口にいえば、唐宋時代の茶道は中国古代茶道において重要な存在だけでなく、日本茶道にも大きな影響をあたえた。

二、日本茶道の流れ

日本におけるお茶を飲む習慣及び茶の製法は平安時代に遣唐使によってもたらされた。

延暦23年(公元804年)、日本の僧侶最澄が入唐、天台山で仏経を学んで翌年帰国、お茶の種子を持ち帰った。

その後、日本の佐賀県を皮切りにして、だんだん日本の中部と南部にお茶の栽培を広げてきた。

お茶を飲む習慣が盛んになっていた。

しかし、当時お茶を嗜好品として貴族と僧侶の飲み物だけであったように思われる。

鎌倉時代に、日本に禅宗を伝えた栄西や道元によって薬として持ち込まれた抹茶が、禅宗の広まりと共に精神修養的な要素を強めて広がっていった。

紀元914年、彼の書いた『喫茶養生記』は日本の茶経と呼ばれている。

それは早期日本茶文化大成であり、陸羽の『茶経』に関する整理と更新の大作であり、三百年以後の日本茶道文化の誕生のため基礎を固めていた。

室町時代においては、飲んだ水の産地を当てる闘水という遊戯から、闘茶という、飲んだ茶の銘柄を当てる一種の博打が流行した。

また、本場中国の茶器「唐物」がもてはやされ、大金を使って蒐集し、これを使用して盛大な茶会を催すことが大名の間で流行した(これを「唐物数寄」と呼ぶ)。

これに対し、村田珠光が茶会での博打や飲酒を禁止し、亭主と客との精神交流を重視する茶会のあり方を説いた。

これがわび茶の源流と成っていく。

わび茶はその後、堺の町衆である武野紹鴎、その弟子の千利休によって安土桃山時代に完成されるに至った。

特に、利休のわび茶は武士階層にも広まり、多くの弟子たちを育てた。

彼の『和敬清寂』という主張は日本茶道に決定的な影響を与えた。

その後、日本茶道は現実の束縛をのがれ、新たな精神世界を開いて、禅と結び付けるとともに、茶道の正体に戻った。

その後、現在まで連綿と続く侘び茶を徹底させ、千家茶道の礎をきずいたのは、少庵のあと千家3代を継いだ千宗旦(1578~1658)である。

宗旦は、末子の宗室が20歳を越える頃、自分の茶を譲ろうと考え、ついに不審菴を三男宗左に任せ、自分は末子の宗室と共に、同邸内に茶室を建てて移り住んだ。

それが、裏千家の一畳台目の茶室今日庵、利休四畳半を正しく再現した又隠、八畳敷の広間寒雲亭である。

これらの由緒ある茶室は、すべて宗室に譲られ、世に言う表千家の不審菴と、後に宗旦の二男宗守が建てた分家としての官休庵とあわせた三千家が生まれました。

この三家は日本茶道の主流になっている。

三、中日茶道比較

日本茶道の源は中国茶道ですが、中国茶道を継いただけでなく、自ら発展し自分の特徴と伝統を形成してからこそ、千年後の今日、いろいろな違いが存在している。

また、様々な日本茶道の流派があるので、ここで日本の裏千家を例にして、以下のように簡単に比較してみたいだ。

まず、茶道の三要素に関する。

中国茶道も日本茶道もお茶、水、火を大事にするが、それぞれ多くの違いがある。

中国では 明という時代、明太祖朱元璋が「過酷」という理由で洪武二十四年に「団茶廃止令」を出し、散茶(芽茶)がすっかり主流の座に昇り、製法も今までの蒸青から炒青へと換わり始めた。

「善蒸不如善炒」という言葉があるように、炒青製法は香りがもっと良いと、明中以降、蒸青にとってかわり、炒青が主流になった。

「茶疏」という本の中で「炒茶、生茶初摘、香気未透、必借火力、以発其香。

然性不耐労、炒不宜久......」と炒青製法が書かれてある。

「沖泡」という言葉が使われ、お茶の楽しみ方が更に簡単、簡略化されま。

それと較べれば、日本の煎茶とも抹茶ともお茶を蒸した後、揉まずにそのまま乾燥し、茎や葉脈などを除いた後、細片が「てん茶(碾茶)」となる。

つまり、中国の茶道の使う茶葉は固形茶で、日本茶道の茶葉は散茶である。

また、茶葉の違いで、水と温度にたいする要求も異なる。

中国茶道でお茶の種類によって、水の最適温度も違う。

更に、煎目によって、水の温度とかかる時間も異なることがある。

このほか、お茶の神様「陸羽」著書『茶経』の「五之煮」(下巻)で「其水、用山水上、江水中、井水下」と書き、陸羽の後にも張又新が『煎茶水記』の中でも使用する水によって茶湯の色、香りと味が変わるだと水の大切さを強調した。

第二、茶道の作法の違い。

茶葉の違いは直接にお茶のいれ方の違いに決める。

例えば、中国茶道で、通常、1煎目は飲まずにすぐ茶海・茶杯に注ぎ、それらを温める、残りは茶盤に捨てる。

これは「洗茶」や「温潤泡」と言うが、近年1煎目は捨てないのが主流になりつつである。

この手順は日本茶道の中で存在していない。

日本茶道の方からみれば、茶筅という茶道具が今の日本茶道の特有道具であり、それを使って、お茶を泡立て、おいしくなる重要なものです。

また、泡立ての多少によって、稽古が上手かどうか決められた。

第三、礼儀の面でずれがある。

中国茶道とくらべれば、日本茶道のほうが礼儀にもっと厳しいと思う。

簡単にいえば、日本茶道礼儀は炭礼儀、濃茶礼儀、薄茶礼儀三類に分けられる。

炭礼儀は茶道の始まる前に、炭に関する用意を指す。

濃茶の礼儀は一番厳しいであり、亭主が黒い着物をつけなけらばならない。

それと比較すると、薄茶の礼儀は茶道礼儀で一番基本な礼儀といえる。

普通に、茶道の始めと終りの時に、亭主とお客様はみんなお辞儀をする。

それも有立ちと跪き二種類がある。

しかも、お辞儀の程度によって、真礼、お礼、草礼に分けられる。

それぞれは順序に亭主とお客様の間で、お客様のなかで、また話の前後で行なわれる。

そのほか、人間と物の礼、無言の礼、有言の礼、約束の礼などの礼儀もある。

約束の礼は日本茶道の特徴として、豊か、奇妙で多種的である。

茶道具にお礼をするのは、すべての物に魂が存在しているからだと日本人が思う。

それも日本茶道礼儀特徴の一つである。

次に、茶道具の不同。

中国茶道の茶道具と日本茶道のはかなり違う。

種類や、スタイルや、明らかな違いがある。

ここで茶碗を例にして、簡単に比較してみたい。

日本では、茶碗の造られた土地によって分類される呼び名には、唐物・高麗茶碗・楽茶碗・美濃焼などがある。

茶の湯をわび、寂び(さび)と呼ばれる茶を発展させたのが武野紹鴎が冷・凍・寂・枯の理念を持ち、唐物名物を定めた。

だが、武野紹鴎に師事した有名な弟子千里休が寂びの茶を発展させ、唐物から日本独自に創作した茶道具の良さを提唱し広めていた。

その後、日本茶道の茶碗は何気ない磁器の白椀を用い、質朴、自然を第一という傾向へ向かっていた。

地味で素朴の茶碗から、日本茶道「和敬清寂」の奥深さを心をこめて玩味して、その佗びさびで幽玄な境界へ進める気持ちを皆様に伝える。

いま、中国茶道の茶碗は主に紫砂茶器と磁器物二種類がある。

だが、歴史の記載からみると、豪華で派手なスタイルを追求していた人間もある。

そういう茶碗はある意味からいえば、身分、地位と財産の誇りとして造られて、茶道具の役割を果たすだけではなかった。

貴族や金持ちが貴重な茶器を使い、おのずと地位の高さや贅沢な暮らしを相手に示し、精神満足を果たす。

最後に、茶会の異り。

中国の茶会と比較すれば、日本の方は更に多くの仕来りがあり、時間も長く、段階も複雑であり、かなりの隔たりがあるといえる。

正式な茶会は以下のように大体いくつかの段階からなる。

着替え

茶庭観賞

初茶

懐石

中立

濃茶

後炭

薄茶

退出

繋ぎ

統計

二十分

二十分

六十分

二十分

三十分

二十分

三十分

十分

三十分

四時間

初座 一時間四十分

 

後座一時間二十分

それ、茶事には、食事を伴い、その時に出されるものは懐石をという。

それは中国茶道にありません。

懐石料理は一汁一菜が原型で、今はとても豪華になり一汁ニ菜、あるいは一汁三菜と預け鉢が出されます。

それと、吸い物(箸洗)、八寸が出ます。

預け鉢の事を強肴(しいさかな)とも言います。

また、お茶を飲む前に、お茶菓子も用意してある。

そして、懐石料理もお茶菓子もどちらも季節によって、種類も相応に変わる。

人間は食べ物を通じて季節の移り変わりを身近に感じ、四季を味わうことに喜びを見い出していたはずである。

そういう仕来りは日本茶道茶会の独得なことで、日本人が自然に親しみの表現である。

四、日本茶道の心

有名な作者岡倉覚三がその著作『茶の本』で『人情の碗』を第一章として、茶道は社会の上下を通じて広まると論ずる。

それからみれば、茶は日常生活の俗事の中に美を崇拝する一種の審美的宗教すなわち茶道の域に達するだけではなく、日本民族性格とも深い繋がりがあると思う。

なんといっても、茶道は人間の意識によって形成され、人間の精神を反映できることも当然である。

いわゆる人生というこの不可解なもののうちに、われわれのいっさいの見解を表しているものと岡倉覚三はそう言う。

第一、美を隠す術。

ほうとうの茶人チャールズ・ラムは、「ひそかに善を行なって、偶然にこれが現れることが何よりの愉快である。

」というところに茶道の真髄を伝えている。

というわけは、茶道は美をみいださんがために美を隠す術であり、現すことをはばかるようなものをほのめかす術である。

そういう日本茶道の美意識は日本独特文芸の伝統精神の影響をうけるべきだ。

日本の独特文芸というのは、日本の風土における日本人の心、つまり日本人の精神を反映る文芸形式であり、例えば、和歌、歌舞伎、能、狂言、生け花など伝統文芸である。

和歌は日本独特文芸の中で最も特徴的で代表的なものであるといわれている。

大伴家持の

うらうらにてれる春日に雲雀あがり情悲しもひとし思へば

紀貫之の

霞立ち木の芽はるの雪ふれば花なき里も花ぞ散ける

など有名な和歌を通して、日本人の「もののあわれ」という美意識を明らかに伝える。

そういう美意識は平安時代を経て、「幽玄」となり、「わび」に至った。

有名な随筆「方丈記」の鴨長明が、別の随筆の中で、はじめて幽玄という美意識を提唱して、それで、日本人の心の美意識の転換を見い出した。

幽玄という美意識は目で発見するのではない、心で発見できる美こそ真の美である。

つまり、人が物の表面の美だけに引き付けられるより、自分の心でそのものの奥に隠れている見えない美を十分発見することはもっと重要であると主張している。

日本茶道具を見れば、外見や材料によって、その茶道具の価値あるいは面白さがきめられない。

人間は茶道具に対する鑑識を重ねて、稽古を積むことを通して、茶道具に没入して己を無にするという、その無我の境に発する心情にほかなるまい。

だからこそ、その裏に隠れている美を発見し、感受すべきである。

それに反して、1987年中国の法門寺塔の下で唐時代の一セットの茶器が発掘された。

素晴らしい構造、美しい外見、最高な細工、派手な飾り、だれが見ても感心すると思う。

実は日本茶道具がもともと中国と朝鮮のものを模倣にして、派手なスタイルを追求していた。

平安時代後、だんだん自分の独特な美意識が形成された。

白、黒または原木の色を主にして日本風の建物と地味素朴な茶道具を組み合わせ、自然をできるだけ近付く雰囲気を創造して、この心で人に接すれば世の中が和やかになる。

わびの茶道具の鑑賞を通して、自然も人間の生活の平凡素朴を認識し、十分味わうことで、ストレスが解消し、疲れも取れ清々しい気持ちになれる。

そういう考え方からみれば日本人文化心理、美意識の違いが現れる。

第二、人情の碗。

海に囲まれた国土に育つ日本人は、厳しい自然環境と昔から続いた戦争から集団意識の重要性を充分意識する。

生きていたため、日本人はお互いの生活に利益のあることを喜びあい、不利のあることを悲しみ合う。

つまり、「和」の思想が日本人の心に根付している。

茶道所の極力誇張する雰囲気、世間の人の紛争を捨て、穏やかで、静謐な境地を追求するために、茶室の調子を破る一点の色もなく、物のリズムをそこなうそよとの音もなく、調和を乱す一指の動きもなく、四囲の統一を破る一言も発せず、すべて独創的な工夫がこめられている和の雰囲気に突き出て、特に1枚半畳の大きさの茶室は人と人の距離を目と鼻の先まで固まって縮めて、いっそうお茶の交際する境地で心と心が通じ合うことに突き出した。

そのすべての背後には微妙な哲理が潜んでいた。

そして、亭主とお客、また、お客の間で、独特な繋がりがある。

それは、主客協力して、このおりにこの浮世の姿から無上の幸福を作り出す神望な儀式を行う口実となった。

例えば、お茶が出される流れを見て、まず、茶碗が目の前に置かれたら丁寧に礼をする。

それから、茶碗を左膝脇に置いて、「お先に」と挨拶。

そして、茶碗を膝前正面に置いて、亭主(茶を点てた人)に「お点前頂戴いたします」。

次に、茶碗を両手で押し頂く(感謝の意)。

そのあと、茶碗を2度時計方向に90度位まわし(正面を避ける為)3口位で飲みます。

最後に「スッ」と吸い切る(美味しかった、の表現)。

そうして、茶碗を元に回し膝前に置き両手をついて一見してから手にとって細部を見る(形、釉薬、土の色など)。

最後に、膝前に置いて再度一見してから亭主に返す。

返すときには茶碗の正面が亭主に向くように廻して置く。

つまり、亭主とお客は独立じゃなく、お互いに尊重し、考えを交流して、一体とってく。

その一碗のお茶のため、庭(露地という)や茶室を掃除し、道具の組み合わせに知恵を絞り、床に軸や花をかざり、懐石料理やお菓子を吟味し、美味い水を探す。

そうした準備のために数ヶ月を費やことも稀ではない。

その努力の対価はお客様の充足感や喜びです。

このお茶の精神は「思いやり」という言葉で表現する。

その「思いやり」の根底にあるものが「和敬静寂」の「こころ」であるに違いない。

第三、俗を離れる術。

中国のお茶文化は社会それぞれの段階文化を含んで、宋から市民のそれぞれの階層にいりこんだ。

都市と町に興る茶屋、茶庭、茶室などこのような場所は最も際立った代表である。

士・農業・工業・商業はすべてそこで友人の歓会を行ない、茶会が人と人との付き合いの手段、生活自身の内容になって、また地区によって更にきわめて豊富な「お茶の民俗」があって、一口にいえば中国の茶道は民衆性を持っている。

これと相反して、日本の茶道は寺院の文化から起源して、一から始めてより強い等級の意識を持って、茶会が上品な活動だけではなく、更に尊ぶ身分のシンボルとしておこなわれる。

日本人は茶道を尊重して、いままでたくさんの有名な茶道の代々の名門がいて、茶道は民衆の中でもとても影響がある。

だから、日本茶道が自分の特徴を持っている。

封建時代の日本、身分階層制の広がり、厳しい秩序を建てる。

しかし、亭主は露地と茶室という特異な茶道の空間を設け、客を別世界に誘おうとする。

わび茶は深山幽谷をおもわせる山里風の庭を邸内に設け、その奥に中世隠者の室をしのばせる茶座を建て、世俗の世界を脱却したり、世界を茶の湯の場として創造した。

人々が仏教で煩悩を離れた境地を代表した露地を入って、つくばいで心身を清めた後、茶室に入る。

茶室の組み立てには、重複と対称性が絶対に避けられる。

使われる材料も土や木や麦わらなどの寿命の短いものが大部分である。

茶室にはとくに味わい深いところとして、にじり口が上げられる。

大きさは一定しないが、高さ二尺三寸あまり、横二尺一寸ぐらいが標準とされる。

これは千利休が淀の川舟の窓にヒントを得て考案したものだと伝えられる。

客が茶室に入るには、にじって入らなければならない。

封建時代に、天皇だってそういうにじり口から匍匐して茶室に入るのであった。

身分の高い武士たちも自分の力の象徴である刀をはずしてからみんなと同じように入るのであった。

今日に至って、いくら尊ぶ客であっても、依然としてにじり口を潜って入るという規則を守らなければならない。

だから、にじり口は茶道の「平等」というシンボルと見られる。

茶人たちに身を以って禅の「万物差別無し」の精神を体験させたかったからであろう。

小さい茶室の中ですべての俗世間の善悪は風向き次第でいって、平民と貴族はひざを交えて話して、これも禅の精神です。

禅の精神から見て、人と人は高低善悪を分けることがないので、「人の和は最も大切である」の第一主義の境地も禅宗が人の心の頼った雰囲気をまっすぐに目指すのです。

茶室は簡素にして俗を離れているかた真に外界のわずらわしさを遠ざかった聖堂である。

ただ茶室においてのみ人は落ち着いて美の崇拝に身をささげることができる。

その時、茶道は芸術的精神と自由に交通す唯一の機会になり、大名も武士も平民も差別はなっかた、日本人にとって特別な意味がある。

よその目には、つまらぬことをこのように騒ぎ立てるのが、実に不思議に思われるかもしれない。

だが、一杯のお茶でなんという騒ぎだろうというであろうが、考えてみれば、煎ずるところ人間享楽の茶碗は、いかにも狭いものではないか、無辺を求むる渇きのとまらぬあまり、一息に飲みほされるではないか。

してみれば、茶碗をいくらもてはやしたとてとがめだてには及ぶまい。

禅の主張によれば、物事の大相対性から見れば大と小との区別はなく、一原子の中にも大宇宙と等しい可能性がある。

茶道いっさいの理想は、人生の些事の中にでも偉大を考えるというこの禅の考えから出たものである。

五、中日茶道の社会作用

茶は薬用として始まり後飲料となる。

品においては八世紀に高雅な遊びの一つとして詩歌の域に達した。

十五世紀に至り日本はこれを高めて一種の審美的宗教、すなわち茶道にまで進める。

われらの住居、習慣、衣食、絵画など文学でさえ、すべてその影響をこうむっている。

いやしくも日本の文化を研究せんとする者は、この影響の存在を無視することはできない。

以下のように、五方面から今茶道の社会作用を詳しく説明する。

第一、教養としての伝統文化・芸術の知識を学ぶものである。

床の掛け軸や茶杓の銘から禅語や詩歌など、茶入・茶碗・水指などから中国・朝鮮・日本の陶磁器、薄茶器や菓子器では漆工芸、仕覆や古帛紗では古代布、菓子では季節感や和歌など、他に着物、茶室建築、茶花、懐石料理、香などについて楽しく触れる。

日本茶道格式は慎み深くて、古风で质朴であることを强调して、寂の美を清算する。

日本の伝統文化や芸術に関する基礎知識があれば博物館や美術館での鑑賞が一層楽しくなること。

しかし、日本茶道は空いていて心の物が一致するほど寂中に頼むことを提唱して、ただそれは形式にあまり拘泥して、静座を打って、世人にとってちょっと厳しくつまらないである。

それより、中国茶道の中で日本茶道のような厳格さの规程と仪式が少なくて、楽になるとともに、人との付き合いの手段の傾向がある。

第二、精神的な『癒し』の効果がある。

日常の雑事から離れ、作者の温もりを感じる道具で亭主として一心に茶を点て、又客としては季節を感じる美味しい菓子の後で一服の茶を飲むことで、ストレスが解消し、疲れも取れ清々しい気持ちになれる。

亭主として或は客として常に自分のすることを考えながら体も動かして時間をすごすので脳を活性化する。

又茶に含まれるカテキンやビタミン類が健康を増進する。

お茶をなさっている方は年齢を重ねても若々しくて元気である。

第三、躾の方面。

茶道は礼に始まり礼に終わると云われる。

日本茶道にはその礼も真・行・草の三種類がある。

丁寧な深い挨拶、普通の挨拶、軽い会釈である。

この三種の礼を理解して励行すれば、その姿形が美しく礼を失することはない。

また懐石料理の際の器や箸の持ち方・使い方、さらに盃の使い方などを知ればどのような席に招かれても安心できる。

中国茶道には、人間の丁寧な言葉使い、優雅に振る舞いが教養を身につけることとみられる。

第四、中日交流の手段。

ここ数年、大日本茶道学会はよく団体を組み、世界各地で交流を行なっている。

70年代、中日両国友好条約調印するとき、鄧小平総理が日本でお茶を出していただいた。

その後、90年代表千家の茶人が中国に来て、当時の李鵬総理に茶道を行なわれた。

ここ数年、中国の大学で何度も日本から茶会の茶人が茶道をおこなうことがある。

知らずに、両国の文化交流が一層さかんになる。

最後に、社会流れの表現。

周知のように、長い歴史で日本茶道は家元制度を継いでいた。

秘伝の非公開性と男だけにつたえる家訓が日本茶道社会の閉鎖性に決まっていた。

茶の湯はその時代をリードする階層に属する男性の嗜みとしての地位を与えらた。

公家、将軍、戦国武将、大名、豪商などがその担い手だった。

明治に入り、政府の働きで、各流派が女性にお茶を教える資格を与えることになったそうだ。

そうして一気に女性の間に茶道が広まり、女性の花嫁道具のように評価されるようになった。

茶道の長い歴史の中で女性が主体のようになったのは最近の100年ほどの間のことである。

終わりに

日本茶道が中国茶道から始まったが、時代や環境を超えるにつれて、日本人は茶道に対する考えもかわっている。

形式の違いであろうか、意識文化の隔たりであろうか、中日文化交流の障害にならなくてほしい。

わたしたちの目標は相違の中からお互いにいいところを学び、優

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