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中国文化と日本文化の比较

中国文化と日本文化の比較

苫小牧駒澤大学 国際文化学部

A02126   蒋   莉

第1章 まえがき

 私は来日以来もう四年間を経ちました、この四年間中に各国文化を勉強しました。

その中で日本文化が一番気になっています。

中国留学生として、中国文化と日本の文化がいろいろ違うと感じます。

そして、中国と日本の友好発展に対して、とても関心があります。

私は個人として、中国と日本のことを色々とを調べました。

そのいくつかを述べたいと思います。

第2章 中国の食文化と日本の食文化

 2.1 中国の食文化

  中国は世界で「料理王国」「グルメの国」と称えられている。

中国人がいるところには必ず中国料理店がある。

孫文がかつて、「中国の飲食の進歩はいまなお文明諸国が及ばないところである。

中国の開発した食物は欧米より多いが、中国調理法の精密さは、欧米が匹敵できないものである」というまさにぴったりの要約をおこなった。

中国には、「民は食をもって天となす」ということわざがある。

食は人間が生存するうえでの第一義的な必要だと見られ、人々は生産と生活の実践において、天災と人災によってもたらされた飢饉に直面して、自らの生存のため、できるだけ種類の多い食物の発見と開発に努めてきた。

中国人は食べることを楽しみの一種とし、飲食は人生の一番大きな楽しみと見ている。

ほかでもない、中国人こそが数多くのすばらしい調理法といろいろなグルメ料理を作り出した。

中国は土地が広く、気候は変化に富み、多種多様な動植物がある。

これは中国の飲食調理の形成に、素晴らしい自然条件を作り出した。

中国の調理は、数千年にわたる創造、模索、経験の蓄積を通じて形成された歴史的な集大成であり、長い歴史を持つ中国文明の有機的構成部分である。

中国の料理と食品はその種類にしても、風味と調理技術にしても、いずれも豊富多彩である。

四川料理、山東料理、江蘇料理、広東料理の四大料理のほか、風味の異なる多くの地方料理および数千種の地方の軽食、異なった民族的風味を持つ料理や食品が形成された。

山東料理は春秋戦国時代の斉と魯(今の山東一帯)を起源とするものであり、材料の選択を重視し、包丁さばき(切り方)が細かく、調理法が全面的で完備し、味付けが適切で、火加減もちょうどよく、口当りがよく、スープが材料のもとの味を保つことがその特徴である。

山東料理は基本的に中国北部をカバーする中国北部料理の代表格とも言え、明朝、清朝の宮廷料理の中にもたくさん吸収されている。

四川料理は昔の巴と蜀(今の四川省一帯)にさかのぼることができる。

四川料理は広い範囲から材料を選び、味加減も変化に富み、さまざまな風味のものがあり、いろいろな調理法に加えて料理の種類も多いという特徴がある。

統計によると、現在、四川料理の種類はすでに五千種に達している。

味が辛いのがその特徴である。

四川料理は「一つの料理が一つの風味をもち、百種の料理が百種の風味を持つ」と称えられている。

江蘇料理は蘇州、揚州と南京(いずれも江蘇省にある)の地方料理が互いに補完し合い、溶け合って形成されたものである。

江蘇料理は材料の選択が厳しく、作り方が細かく、調理法がユニークで、さっぱりした味で、塩と甘味の加減がちょうどいいし、また材料のもとの味を保つことを重視することがその特徴である。

また、もう一つの特徴は料理の色彩、造型を重視し、観賞の価値がある。

広東料理は古代を起源としているが、体系としては明代と清代に形成されたものである。

広東料理は発展の過程において、五嶺の南一帯の地域の特色を保つことを踏まえて、たえず北部のさまざまな料理と調理法から養分を吸収するとともに、西洋料理の作り方をも一部参考にし、それを吸収して、現在の広東料理を形成した。

その主な特徴は材料の品種が多く、風味がユニークで、季節別の料理づくりを重視し、口当りがよく、柔らかい。

調理法は広東地方の特色に富む。

中国経済の発展、人々の収入の増加につれて、食品の質も急速に向上している。

観光業が急速に発展しているため、内外観光客が日増しに増えている。

社会経済の発展によって、多くの流動人口が現われている。

これらすべては中国の飲食調理業のこの上なく大きな発展を促している。

現在、四川料理、山東料理、江蘇料理、広東料理の四大料理体系は基本的に全国の各大中都市をカバーしている。

各大中都市では、主導的地位を占めている四川料理、山東料理、江蘇料理、広東料理と地元の風味の地方料理があるほか、ユニークな特色をもつ潮州、東北、山西、台湾、湖北、湖南、海南などの地方料理およびモンゴル族、タイ族、朝鮮族などの民族料理もある。

また、宗教的色彩を帯びた精進料理とイスラム料理および数多くの地方風味をもつ軽食もある。

北京 ~庶民の味 宮廷の味~

中国料理の代表といわれる北京料理。

それは中国各地の料理の集大成であり、また、庶民の味から宮廷料理にいたるまで、伝承を継承し、改良を重ねて質の高い食文化を形成してきた結果とも言える。

本編では、北京料理の日常食から北京の著名な料理店の厨房まで徹底取材し、それらの魅力を探る。

広東 ~食は広州に在り~

四季を通じて、樹木の濃い緑と花々の赤に彩られる広州。

自由市場の多彩な食品の紹介に始まり、広州最大の料理店・渓酒家では、飲茶の風景に仔ブタの丸焼きの全プロセスを撮影。

南園酒家ではとうがんの蒸しものに代表される「蒸す」という東アジア独特の調理文化にスポットをあてる。

江南 ~魚米之郷の名菜譜~

米と魚介類が豊かな、魚米之郷・江南。

本編では、とれたての魚と豊富な穀類の並ぶ鎮江の自由市場、楼外楼の伝統的な魚料理、上海の小籠包子やカニにカメラを向ける一方、紹興酒、鎮江香醋、金華火腿(ハム)など、中国随一と称されるものも取材し、江南全体の豊かな食文化の世界を紹介する。

四川 ~天府之国の百菜百味~

冬は比較的温暖、夏は盆地特有の酷暑。

こうした風土を持つ四川は、香辛料や大豆食品をうまく複合させた充実した食文化を形成した。

これら独特の四川料理の魅力を取材するほか、地の恵み・塩、水の恵み・野菜、さらに家常菜(家庭料理)にもカメラを向け、四川の食、生活、風土を詳しく紹介する。

 中国の人々は中国在来の料理や食品をよく賞味しているが、異国情調に富む外国の風味も排斥しない。

北京を例にあげてみよう。

北京ではアジアのタイ、インドネシア、ベトナム、日本、韓国の風味のレストランのほか、フランスの風味とロシアの風味のレストランもあり、町のあちこちでハンバーガー、ピザ・パイ、ケンタッキ・フライド・チキンなど西洋軽食店を見かける。

中国の飲食調理業の発展をいっそう促すために、中国の飲食調理業経営者は外国の調理技法とその他の長所を吸収し、参考にしている。

2.2 日本の季節と食文化 

  端午とは月の初め(端)の午の日のことで,5月に限ることではないが,中国の漢代以後,5月5日を端午というようになった。

日本の端午の節句の行事は,中国伝来のものが多く,それに日本古来の習俗などが加わって,病気や災厄をはらう目的の行事となった。

 江戸時代には,武家はいうまでもなく町方でも,7歳以下の男子のいる家では,5月幟を戸外に立て,兜人形を飾っていた.また鯉幟を立てることは天保のころに行われた.当時の鯉幟は紙で鯉の形をつくり,竹の先につけて立てたもので,明治の末ごろにもまだ紙鯉が凧絵師によって作られていた。

 食べ物としては,柏餅,粽(ちまき)があるが,江戸時代から江戸は柏餅,京坂は粽が主で,この傾向は現在も続いている。

 粽は古くは茅の葉でまいたところから茅巻(ちまき)と呼んだのが語源と言われている。

その歴史がとても古く,日本では10世紀始めには作られている。

 柏餅は比較的新しく,江戸時代の寛永年間に作られ始めたとされている。

もっとも,草木の葉で包んだり,巻いたりした菓子は古くからあり,その始めは「源氏物語」にかかれている”つばめもち”だと言われている。

うなぎの蒲焼き(時期7月、土用の丑の日)

  江戸時代の、神田のうなぎ屋で春木屋善兵衛という人がいました.ある夏のこと、藤堂という大名家から「旅にでるので、蒲焼きをたくさん欲しい」という注文を受けました.そこで春木屋は、土用の子、丑、寅の3日間にわたってうなぎを焼き続け、その日毎に土かめにわけて入れておきました.さて約束の日にうなぎを取り出してみると、子の日と寅の日に焼いたうなぎは、色、味とも変わっていたのに、丑の日に焼いたものは、色、味、香りとも変わっていない。

そこでそれを大名に納めました.それ以来、うなぎの蒲焼きは「丑の日」がよいということになったそうだ。

月見だんごなど(時期旧暦8月15夜と9月13夜)

  十五夜の行事は中国で始まり、平安時代に日本に伝わり宮廷の月見の席では月の詩や歌を作り、雅楽を奏でたそうだ。

江戸時代になると、多くの人々の間にも月見が広まり、だんごや枝豆、里芋、栗、柿、すすきなどを供えるようになった。

十五夜は「仲秋の名月」または「いも名月」といわれ、主に里芋を供えて食べていた。

また、十三夜を「後の名月」、「豆名月」といい枝豆を供えて食べていたようだが、現在では月見だんごが主になっている。

千歳飴(時期 11月15日9)

  七五三は,子供の成長を祝う行事だ。

七五三では,千歳飴を食べる。

千歳飴は,江戸時代の初め,浅草で飴売り八兵衛という人が「千年アメ」と名づけて売ったのが始まりといわれている。

千歳飴は水飴を適度に煮詰めた後,飴の中に気泡を入れながら加工した物で,このために色は白くなり,量も増え,風味がよくなります.赤く着色した物と組み合わせて紅白の飴を,長寿を願って鶴や亀が描かれた袋に入れる。

かぼちゃ(時期 12月下旬)

  冬至は1年中で一番昼が短い日だ。

この日は,太陽がもっとも南にくるときだ。

これから先は,また,日が長くなっていく。

 世界の各国では,冬至を太陽の誕生日と考えるところが多く,これがお正月やクリスマスにつながっている。

冬至にはかぼちゃを始め,おかゆやこんにゃくを食べる習慣が残っている。

 一部の地方では,レンコン,みかんなど,「ん」のつく食べ物を7種類食べると幸福になれるともいわれる。

これは冬になり,めずらしくなった野菜をお供えする意味からきている。

 また,風邪をひかないよう,ゆず湯に入る習慣もある。

寒いときは,かぼちゃ,にんじんなど色の濃い野菜を食べ,風邪の予防をするといった昔からの知恵が感じられる。

 

年越しそば(時期 12月31日)

 年越しそばは,江戸中期からの風習であろうとされ,江戸後期には地方によっては欠かせない物であった.由来鎌倉時代に中国から博多に来ていた貿易商が七百年ほど前に,年の瀬も越せない貧しい人たちにそばがき餅をふるまったところ翌年からみな運が向いてきたので,大晦日に運そばを食べるならわしが生じた.そば切りは細く長いので,長寿や身代が長く伸びるようにと食べた.そばは,新陳代謝をよくし体内を洗浄するので大晦日に食べて新年を迎える。

現在,「そば」といえば穀物でもあり麺でもあり区別しにくいが,江戸時代には麺のそばはそば切りとよんだ。

穀物のそばは中国の雲南省が発祥地と言われており,日本でも奈良時代には既に栽培されていた。

古くは粒食されていたようで,現在でも徳島県の山村には「そば米」があり,山形県には「むきそば」がある。

これらは殻がついたままのそばの実を塩水でゆでて,殻の口が開く頃に取り出し,むしろの上でよく干してから脱穀したものである.粉食されるようになってからは,そば掻,そば餅などとされ,そば切りが現れたのは慶長年間(1596~1615)のことである.

第3章 中国と日本の首都のくらし比較

 中国国内のそれほど多くの地方を旅行したわけではないが、それでも1泊以上した場所の数は北京も含めて16か所になる。

最近ではどの街に行っても、なんとなくどこも同じような感じに思えてあまり新鮮味を感じなくなってしまった。

中国の街についてどこでも共通して当てはまる言葉がある。

それは「雑然としている」ということである。

東京や大阪だって雑然としているのは同じだが、日本の場合、歴史のある地方の都市に行くと、なんとなくしっとりと落ち着いた感じを受ける場合があるが、中国の場合、地方の小さな街へ行っても、小さいなら小さいなりに雑然としている。

好意的に言うと「庶民の活気があふれる」とか「親しみの持てる」とかいう形容詞がつくわけである。

どこへ行っても活気がある、人間の生活臭がある、というのは悪いことではない。

 北京もそうした中国の街の一つである。

市の北東部にある北京空港から市内までの約30kmの道はほとんど一直線で切れ目なく緑の街路樹が続いている。

市内に入ると、まず第3環状路と交差するが、この交差点は北京の中でも一番立派な立体交差になっていて、まわりには最近建てられたばかりのアパ-ト群が並んでいる。

このため、初めて中国へ来て、空港から第3環状路に入りそのまま合弁ホテルに入ってしまうと「へ~っ。

中国っていうのも中々整然としたところですね。

」という感想を抱くのである。

もっとも、中国系の(合弁ではない)ホテルにあるこの事務所に来る人は、合弁ホテルに泊まる人よりは、もうちょっと「庶民的な雰囲気」に触れることができるわけである。

「庶民の活気がみなぎる」朝夕の自転車通勤風景も「親しみの持てる」「生活臭のあふれた」自由市場の雰囲気も、好むと好まざるとに拘らず、経験することができるのである。

 行政区域としての北京市はかなり広い。

北京原人の発見された周口店や万里の長城のある八達嶺なども全て北京市内である。

北京市の「市」とは、東京の場合の「都」と同じだと考えればよい。

この周辺部も含めた北京市の人口は975万人、市街地部分だけの人口は655万人である(1986年末現在)。

年平均気温は11.5度(東京は15.3度、以下( )内は東京の値)、1月の平均気温-4.6度(+4.7度)、8月の平均気温24.4度(26.7度)、年間降水量644mm(1,460mm)、年間日照時間数2,780時間(1,942時間)(いずれも1951年~1980年の平均)。

冬少し寒くなりすぎることを除けば北京は気候的には暮らしやすい街である。

人口密度は580人/平方km(東京は奥多摩地区や伊豆諸島を含めても5,402人/平方km)。

生活する上で東京よりは相当に楽である、はずである。

しかし、実際にはそうではない。

 経済の発展の程度が違うのだから、東京と北京を比較するのは無意味な話だが、気候や人口の話が出たついでに事実だけを書いて置くことにする。

まず、北京には日本の大都市にあるJRや私鉄の電車に相当するものが全くない。

地下鉄が環状線と東西線の2路線あるだけである。

路面電車もない。

あるのはバスとトロリ-・バスだけである。

市民は地下鉄・バス・トロリ-バスに乗るか、そうでなかったら自転車で通勤する。

東京で山の手線と中央線を除いて他のJR線と私鉄を全てなくしてバスしかない状況を想定してみれば、これが大変なことであることがわかるだろう。

北京がこれでなんとかやっているのは自動車が少ないからである。

北京の自動車の数(軍用を除く)は184,503台で東京の20分の1である(東京は3,655,721台)。

しかもこのうち自家用車(外国企業、外国人駐在員が所有しているものも含む)は5,122台しかない(数字は北京が1986年、東京が1987年3月31日現在)。

通勤による車のラッシュはないのである。

それが証拠に、北京でも月曜日の午前中は車の渋滞が起こることがあるが、それは8時前後ではなく、各事業所が活動を開始した後の10時ごろである。

ほとんどの人が自転車通勤だが、自転車による通勤距離はせいぜい15kmくらいが限度である。

それ以上だと北京には坂道がないとはいってもかなりしんどい。

北京市当局は現在郊外にどんどん立派なアパ-ト群を建てているが、設備が充実しているわりにはあまり人気がないそうだ。

それは時間通りに運行されないバスに乗るのも嫌だし、1時間以上かけて自転車で通勤するのもきついかららしい。

公共交通機関が発達していないのも北京の発展にとっては大きな足枷である。

 もう一つ北京で暮らしていて気が付くのは、人口が多い割にはデパ-トなどの集まった繁華街や銀行等の公共機関が少ない、ということである。

北京の繁華街としては、北京飯店のすぐ東側にある有名な王府井(ワンフ-チン)やこれと対称位置の北京市中心部の西側にある西単(シ-タン)、古くからの老舗が多い前門(チェンメン)がある。

「繁華街」と言えるのはこれくらいである。

しかもこれらも「繁華街」とは行っても700~800mの道の両側に店がならんでいるだけである。

デパ-トとしては王府井に北京百貨大楼(4階)がある程度である。

これら3つの地区のほかにも天橋百貨公司など結構大きなデパ-トはあることはあるが、それでもやはり東京と比較するのは気の毒である。

東京の場合、銀座、新宿、渋谷、池袋などいくつかの繁華街があって、それぞれに巨大なデパ-トが5つも6つもある。

今、北京にいて考えると信じられないほどである。

 北京は、中国の中でも、人口の割には商業面が発達していない街で、商品の数も種類も少ない、と北京市民はぼやいている。

確かに、北京は政治都市であって、買い物をするには不便なところである。

北京市民は知り合いが出張で上海や広州へ行くと聞くと、お金を渡してセ-タ-やTシャツを買って来てもらう。

彼らに言わせると、北京のファッションは「ダサイ」のだそうである。

そういえば、この間桂林に行った時、その中心街にあるデパ-トへ行ってその品数の豊富さと内部の雰囲気のモダンさにびっくりしたことがある。

北京にはああいう「ナウい」店はない。

北京から同行していった中国側の人が自分のサンダルか何かを買っていた。

何も2,000kmも離れた桂林くんだりまで行ってサンダルを買うことはないと思うのだが、北京の店の「ダサさ」を考えたら買いたくなる気持ちもよくわかる。

桂林は人口30万程度の小さな地方都市だが、観光地で外国人も多く来るから、アカぬけた感じになるのだろう。

もっとも、その桂林の「品数豊富な」デパ-トでも、日本の、例えば「イト-ヨ-カド-武蔵境駅前店」に比べたら完全に負けてしまう。

北京に住んでいると「せめて東京の近郊の駅前にあるデパ-トが一つでいいから北京にあったらなあ。

デパ-トが無理なら小さなコンビニエンス・ストアでもいいから、いつでも新鮮な商品が豊富にある店があったらなあ。

」という思いが切実なものとなる。

 公共的な施設も少ない。

鉄道のタ-ミナル駅も北と南へ行く場合は北京駅一つしかない(北西の方向へ行く場合は西直門駅という別のタ-ミナルがある。

近郊の短区間の列車や貨物のためには別のタ-ミナル駅がある)。

東京で言えば東京駅と上野駅が一つになったようなものである。

完全に処理能力の限界を超えている。

切符売り場もこの駅の1か所しかないから、切符を買うにはいつも「艱難辛苦」に耐えなければならない。

出口と入り口も1つづつしかない。

列車が着くたびに出口は重い荷物をもった人々が殺到して大変な騒ぎになる。

その変わり「5時の汽車で着くんだけど、出迎えは八重州側?

丸の内側?

丸の内なら北口、中央口、南口?

」などと確認する必要はない。

北京駅で出迎える、といったら1か所しかないのだから。

 中国民航の航空券を買えるところも、国際郵便局も1か所しかない。

外貨(日本円など)を貰おうとしたら空港の銀行以外では中国銀行本店の1か所しかない。

個人の費用を日本から送金して貰っている人がお金を受け取る場所は、阜成門にある中国銀行本店の2階ロビ-の5番、6番窓口1か所しかないのである。

だから、中国銀行では知り合いの日本人によく会う。

日本人駐在員は北京に1か所しかないその場所に行かないと日本からの送金を受け取れないからである。

北京では外国人は「知っている人に会わずにひっそりと暮らす」というのはほとんど不可能である。

銀行などが1か所しかないのに、それはそれでなんとかみんなうまくやっているのは、北京における経済活動がまだそれで十分な程度にしか発達していない、ということを表している。

国際郵便局が1つで済んでいるのもその例の一つである。

外国からの郵便小包みはごく小さいものを除いて全て建国門にある国際郵便局に届けられるが、各家まで配達はしてくれないから、受け取り人は各自で国際郵便局まで取りに行く。

窓口は1つしかないが、多くの受け取り人が殺到してどうしようもない、ということはない。

国際郵便小包みの量が人口9百万の北京市でも窓口が1つあればそれで十分な程度なのである。

国際郵便局だけでなく、市内電話の料金を支払う窓口も1つしかない。

事務所の電話の電話基本料金と国内通話料金は毎月市内電話局(国際電話を扱う長途電話局というのは別にある)に支払いに行くが、窓口の人はもうこちらの事務所の名前を覚えていてこちらが顔を出すと領収書の束のなかから当事務所の分を引き出してくれる。

見ると領収書の束はせいぜい数十枚しかない。

電話料金は銀行口座からの自動引き落としにしている会社が多いからかも知れないが(当事務所も国際電話料金の方は銀行口座からの自動引き落としにしている)、それにしても首都北京に1か所しかない市内電話局としては、なんとなくさびしい感じである。

田舎の電話局みたいに、窓口へ行って「やあ○○さん、お元気?

」などと言われるような雰囲気も、素朴でいいもんだが、中国の電話の普及率がまだこの程度なのか、と思うと若干溜め息が出る。

第4章 中日の橋比較

4.1 中国の橋 

 中国の人なら大抵知っている橋がある。

それは山西山脈のふもとにある安済橋(俗に趙州橋と呼ばれる)である。

この橋は隋の開皇中期(595-605)に河北省趙州の河に架けられた橋で、現存する最古の石製アーチ橋である。

これを設計したのは隋代の工匠の李春という人物である。

彼は橋梁技術に大きな改革を行い、従来の橋の考え方に革命をもたらした。

設計と工事が厳格であるため頑丈で堅固であり、洪水や地震にも耐えてきた。

その仕事の見事さは現在でもみることが出来る。

 1400年も昔の橋がいまでも壊れないで残っているというのは、考えれば大変なことだ。

昔の建物というのは、日本も中国もその他の国もそうだが、堅固で強い。

今残っているのは、自然災害や戦乱にも耐えて残った希有な建築物であるけれど、それにしてもすごい。

ギリシャで大地震が起きたときも、近代的な建物はバタバタ倒れたけれど、アテネ神殿はビクともしなかったらしい。

日本にも法隆寺など、世界最古の木造建築が残っている。

先日、法隆寺に行き、その建物を身近で見て、木はこれほど強いものだったのか、と驚かされた。

 もう一つ、中国の人なら大抵知っている橋がある。

南京にかかっている南京大橋だ。

これはソ連の技術者が作り始めたが、中ソ関係が悪くなると引き揚げてしまったため、中国独自で作ることになった橋である。

当時の中国の科学技術の象徴的存在であった。

でも、私はなんとなく李春の橋の方がずっと残るような気がする。

もっともっと何百年も。

4.2日本の橋 

日本の古い橋は木で造られていた。

山梨県大月市にある猿橋は、崖の両岸から角材を突き出しその上に橋桁が載っている構造で610年頃架けられたといわれているが、現在のものは1984年に再建されたものだ。

岩国市にある錦帯橋は世界でも珍しい木造の連続アーチ橋で1673年に建造され1953年に復元された。

猿橋、錦帯橋と越中の愛本橋(

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