山东日语导游词10篇.docx

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山东日语导游词10篇

一、山東省の概況

今日は山東省の概況をご説明します。

山東省は中国東部に位置します。

山東半島は渤海と黄海の間に挟まれており、東は海を隔てて遥か朝鮮半島や日本列島を望めます、北は遼東半島と向き合います。

山東省の西は河北省、河南省と接し、南は安徽江蘇省に面しています。

山東省の総面積は15.7平方キロメートル、総人口は9309万人です。

気候は温帯に位置し、春夏秋冬という四季がはっきりしています。

春と秋が短く、冬と夏は長いです。

年間平均気温は11度から14度、平均降水量は550から950ミリ、東南から西北にかけて次第に減少していきます。

山東省は四季がはっきりしていて、春なら、きれいな花が咲き乱れれます。

杜鹃花(つつじ)、桜、牡丹、桃の花があります。

秋なら、野原の景色がきれいで、果物がいろいろあります。

冬なら、雪が降ります、春節を迎える農家はとても賑やかです。

山東省は中国観光資源の都と言われています。

泰山は中国歴代帝王として尊びあがめられています。

孔子の故郷曲阜はよく知られています。

2008年北京オリンピック共同開催都市青島は最も住みやすい都市とされています。

済南は「泉城」という美しい別名がついています。

潍坊は毎年国際凧揚げ大会を開催しています。

淄博には、斎国時代の斎長城遺跡があります。

東営市の黄河入り口はとても広い湿地帯で、鳥に好まれるとして、鳥の天国といわれています。

文化といえば、山東は中国文明発祥の一つです。

発現された最古の山東人「沂源」はおおよそ45千万年前です。

発現された北辛文化、大汶文化、竜山文化遺跡は今から7000年から4000年前のもので、生活分野の中で、女系族社会と父系族社会の変化が生まれたため、農業や手工業が割合発達しています。

山東で発見された中国最古の文字「大汶口陶書」と「竜山陶書」もあります。

この文字が書かれていたのは4000年前のものです。

近年、山東省はまた最古の都市国家「城子崖竜山古城」を発見しました。

専門家によると山東省には漢唐シルク交易の主要な地としてシルクロ-ドの原点とも考えられると検証しています。

芸術といえば、独特な地方民謡や民間芸術があります。

春秋戦国時代、斎、魯両国には曲芸の出し物がありました。

山東の民謡、楽器、民族踊りは210種余りもあります。

山東美術の歴史は長く、国画は山東流のものが多いです。

年画も山東伝統の旧正月に飾る縁起物の絵というもので、清の時代、民間の木造のものは有名です。

宗教のことは簡単に説明したいと思います。

山東の信教は主に道教で、有名な道教観光地は泰山、崂山、蓬莱閣です。

山東の西部には仏教に纏わる有名な霊岩寺があります。

儒教と申しますと、まず孔子のことを思い出すでしょう。

孔子は中国古代の思想家、教育家、そして政治家です。

2500年前、山東省済寧市に生まれました。

孔子は儒教学を創立しました。

その哲学思想の中心は「仁」で「克己復礼(己に克ちて礼に復える)を仁となす」、仁徳者は「人を愛する」と教えています。

「恭、寛、信、敏、恵」を仁の内容とし「見利思義(利を見ては義を思う)」を唱えます。

天道観では天命畏まるべしと言い方があります。

同時に人事を重んじ、人為についても肯定しました。

認識論では、「知」「行」「学」「思」などの範疇を提唱しました。

儒教学は中国伝統文化の柱となり、世界に大きな影響を与えています。

次は山東省の飲食のことをご説明いたします。

山東では、小麦粉で作った食品が人気です。

マントウ、中華マン、パン、水餃子、油餅、油条、焼餅などがあります。

とくに、山東の人々は誕生日を迎える日は麺を食べる習慣があります。

麺は長寿の象徴とされています。

山東省では、伝統的な祝日がいろいろあります。

春節、元宵節、清明節、七夕、中秋節、大晦日などの祭りがあります。

春節は一年で最も賑やかな時です。

家の中や町でいろいろな行事を楽しみます。

「春聯」を張ったり、年画を張ったり、「福」の文字を張ったり、「団円飯」を食べたりします。

大晦日の夜一睡もせず夜を明かすことを「守歳」といいます。

テレビで「迎春の夕べ」という特別番組などの年越し行事を見ながら餃子を作ります。

除夜の鐘を聞く時に餃子(年越し餃子)を食べます。

「新年明けましておめでとう。

」の挨拶は夜が明けきらぬうちに始まります。

年少者が年配の方に新年の挨拶をすると、お年玉をもらえます。

新年の日に友達同士や隣近所の人が顔をあわせると、すぐ、「新年おめでとう」とあいさつをします。

まだまだお話したいことはたくさんありますが、時間の関係でここまでにいたします。

ありがとうございます。

 

二、赤い旅

今日は赤い旅についてご説明したいと思います。

最近、中国では、赤い旅がなによりも流行っています。

人々はこの赤い旅を通して愛国心を沸きたせます。

中国では、赤い旅に関する観光地がたくさんあります、これを詳しくご説明すると、長い時間がかかりますので、今日は山東省にあるところだけについてご説明したいと思います。

山東省では、赤い旅といえば、まず、臨沂の「赤い臨沂」のことを思い出すでしょう。

「赤い臨沂」は臨沂市の旅行主題「赤い臨沂、緑の風情、问韬武略、地质奇観」の一つです。

臨沂市は革命の中心地としてよく知られています。

臨沂市は红嫂の故里です。

红嫂の夫は軍人です。

红嫂は家の女ですけれども、積極的に夫の革命活動を支え、よく負傷者を救う、心が優しい女です。

それに、臨沂には、姉妹六人が戦争の前線を積極的に献身した物語は山東省はもちろん、中国ほかの地方でもよく知られています。

さらに、臨沂の孟良崮観光地は臨沂の「赤い臨沂」の中心地です。

1947年5月、中国では、共産党と国民党が臨沂の七十二崮の一つ孟良崮で戦いました。

解放軍は共産党に、陳ギ毅に指揮され、国民党の軍隊は張霊旉に指揮されました、二日三泊の激しい戦いを経て、共産党は勝利を得ました。

中国の内戦にかけて、戦争情勢の転換は孟良崮での戦いに負うところが多いと言えます。

二階立ての孟良崮戦争記念館は高さ19.47メートル、1947年に戦争がおこたことを表しんます。

孟良崮戦争記念館の後ろ側にこの戦争に殉じた人の墓地があります。

孟良崮戦争記念碑は孟良崮山頂に位置し、敷地面積は5000平方メートルで、建築面積は100平方メートル、記念碑の高さは30メートル、灰色の花岗岩三つからなっています。

こういうものは野戦軍、地方軍、民兵といった武装の力を表します。

次は、枣庄市の赤い旅についてご説明したいと思います。

台児荘戦争記念館は枣庄に位置し、敷地面積は3.4万平方メートルで、建築面積は0.6万平方メートルです。

こういう記念館は展覧庁、映画庁、書画庁、全景画館の「今日の台児荘」からなっています。

この記念館は現代的な特色を持つものです。

この中で、展覧庁は三つの展覧室からなっています、室内には、台児荘戦争についての歴史などが展示されています。

映画庁は「台児荘戦争」、「台児荘の思い出」、「台児荘での血まみれ戦い」などの記録映画や特定のテーマがある映画を上映したところです。

書画庁には、中国国家のリーダたち、中国有名な書画大家および軍人らの書画作品が展示されています。

全景画館の「今日の台児荘」は中国の四大戦争を反映する全景画館の一つで、かつての戦いの場面を上映しています。

こちらは中国の小学生、中学生に向けの愛国教育の場所です。

また、1937年の台児荘戦争の指導者は中国国民党の李宗仁です。

赤い旅の代表的な観光地李宗仁史料館は枣庄に位置し、敷地面積は6000平方メートルで、台児荘戦争が起きた場所すなわち駅の場所に建てたのです。

こういう史料館は三方が水に囲まれ、運河に面して、、周りの景色はとてもすばらしいです。

李宗仁史料館葉1999年から観光することができ、展覧室、映画庁、戦争遺跡、奥様の胡友松の別荘からなっています。

展覧室には、李宗仁一生の主な活動を描いた写真が展示されています。

映画庁は李宗仁についての歴史資料を上映したところです。

まだまだお話したいことはたくさんありますが、時間の関係で、赤いたびのことはここまでにいたします。

ありがとうございます。

 

三、桟橋

今日は青島の桟橋についてご案内いたします。

桟橋は青島のシンボルとしてよく知られています。

国内外から青島へ来る人々が、桟橋に来て、このすばらしい景色を楽しむ人が多いでしょう。

桟橋は黄海に突き出し、長さは440メートル、幅10メートルです。

この桟橋は青島という町の歴史を見守る建物といえます。

まず、桟橋の歴史についてご説明したいと思います。

1891年、清の時代、ドイツ軍と日本軍の侵攻を防ぐために,二つの埠頭を建てました。

うち一つは今の桟橋です。

あの時の桟橋は貨物輸送の軍事施設として使用されていました。

1901年、ドイツ軍が青島に侵攻した後、桟橋の長さを350メートルまで伸ばしました.そのときもやはり軍用埠頭としての存在でした。

1904年以後、桟橋の貨物輸送の役目にだんだん弱まりました。

その代わりに、桟橋は観光名所になりました。

1931年、南京国民政府は増築をし、南端に2階立ての八角楼「回欄閣」を建てました。

回欄閣は民族建築の特色を持っていたものです。

1933年4月、今の桟橋の規模が完成し、青島一の景勝地になりました。

建国後、青島市政府の增改築をし、北のほうに、桟橋海浜公園を設けて、樹木を植え、百年の桟橋に新たな魅力を付け加えています。

歴史のことはこれぐらいにして、つきにいきたいと思います。

皆さん、私たちは今桟橋の橋頭に立っています、この海への道を歩きながら海の味や海の広大さ、偉大さを感じますか。

前に見えるのは桟橋海水浴場です、これは市内で一番小さな海水浴場で、眺めがとてもすばらしい、それに、近くにはにぎやかな中山路がありますので、大勢名人が水泳に来ます。

皆さん、こちらをご覧ください。

この高い建物は青島税関のビルです、この建物は1992年に建てました、青島税関という名前を呼ばれていますが、山東省全体輸出入管理機関です。

中国北部三大税関のひとつで、1997年から連続五年、輸出入の貨物量は中国で第一位です。

皆さん、私たちは「回欄閣」へ到着します。

前にいう通り、南京国民政府時代に建てた建築は独特の特色を持っていたのです。

こちらからをご覧ください。

汇泉湾ゆきに白い灯台が建つ小島がありますね、そこは「小青島」といわれるところです、琴の形に似ていることから、「琴の島」という名前も持ちます。

植物が多く生い茂っています。

たかさ15.5メートルの灯台のあかりは、青島の美しい夜景に新たな魅力を付け加えています。

こちらを見て、軍艦がたくさん泊まっているのは中国海軍博物館です。

これは中国有数の海軍基地のひとつです。

退役した潜水艦やそのほかの戦艦が、汇泉湾に係留され,戦闘機やミサイルなどとともに屋外で見ることができます。

室内には中国海軍の歴史などを展示されています。

中国海軍の研修施設でもあるため、軍服姿のひとがおおいですね。

皆さん、ここは写真撮影に規制がありますので、係員に従うように注意が必要です。

汇泉湾の東に、かつての別荘地があります、ここは青島の「八大関」と言われるところです。

「八」ははち、「関」は官署です。

八大関の地名は、山海関,嘉峪関といった国内の関所名にちなんだ通りが8つあることに由来しています。

イギリス、フランス、ドイツ、アメリカ、デンマーク、スペインなど、贅を尽くしたヨーロッパ風のクラシックなどの建てものが200棟あまりも現存しています。

エキゾチックな港町といえます。

ロシア式建物の「花石楼」内部も見学することができ、当時の贅沢な暮らしぶりがうかがえます。

八大関賓館、日本人が建てた元帥楼、デンマーク建築の公主楼などが見所です。

八大関賓館は国賓クラスのお客さんを迎える高級ホテル賭して現在も使用されています。

まだまだ言いたいことはたくさんありますが、時間の関係で桟橋のご案内はここまでにいたしますが、どうぞごゆっくりご見学くださいませい。

ありがとうございます。

 

四、趵突泉

ようこそ趵突泉へ

今日は趵突泉についてご案内いたします。

趵突泉は泉のまち济南を代表する有名な泉としてよく知られています。

国内外から济南へ来る人々が、趵突泉に来て、このすばらしい景色を楽しむ人が多いでしょう。

趵突泉は「天下一の泉」と称されています。

趵突泉は古くから泉の湧くところとしてよく知られています。

昔は、沥水,槛权。

娥姜水,瀑流などの名前を持っています。

宋の時代、詞人の曾巩は济南に就職したとき、この泉に「趵突泉」という名前をつけました。

趵突泉という泉の名は、ここから来ているのです。

趵突泉は趵突泉公園に位置します。

泉の池は長方形で、長さは30メートル、幅18メートルで、池の周りには手すりがあります。

水が澄み切っていて、水生植物が揺らめいています。

毎秒1600リットルの水が地下の锺乳洞の裂け目を通り、滾々と湧き出ています。

その水量は最盛期間には1秒当たり1.5立方メートルにもなります。

「趵突空へと吹き上げ、車輪のように見える」という表現があります。

趵突泉は東、西と二つの泉からなっています、東泉と西泉の間に來鶴橋という橋があります。

來鶴橋は明の時代建てられました。

橋の前端にはアーチ型の建物があります。

アーチ型の建物には「洞天福地」「蓬山旧迹」と書かれています。

趵突泉のすばらしい景色は「蓬莱仙境」にまで及ぶということです。

泉の東側には、蓬莱茶屋がありますので、茶屋で、お茶を飲みながら泉を鑑賞する人が多いです。

泉の北の岸には、三棟の民族特色を持っている建物があります。

これらは「沥源堂」「娥英祠」「三聖宫」です。

皆さん、こちらを見て、ここは漱玉泉です。

これからご覧ください。

この建物は李清照の記念堂です。

まず、李清照のことをご説明したいと思います。

李清照、号易安居士、宋に時代、济南市に生まれ、女流詞人としてとても有名です、彼女は自己流を持って、言葉遣いが婉曲だったといわれています。

「漱玉詞」などいろいろな詞を残しました。

歴史書によると、李清照の旧居は漱玉泉のあたりに位置します。

李清照の記念堂は1959年に建てられ、1980年に増改築をし、今の規模になりました、この民族建築の特色を持つ建物は、正庁、東屋、軒、回廊からなっています。

屋外には、竹、芭蕉、海棠が植えてあります。

正庁のなかで、李清照の塑像が立っています。

室内には、李清照一生の主な活動を描いた写真が展覧されています。

皆さん、この石を見てください、この亀の石は「济南一の石」と称されています。

こういう亀の石は、元の時代、散曲家張养浩が北園別荘に残した竜の石、鳳の石、亀の石、麟の石という「四霊石」のひとつです。

石の形によって、それぞれの名をつけたのです。

現在、亀の石だけ保存しています、亀の石の高さが4メートル、純量が8トンです。

白雪楼や沧園は明の文学大家である李攀竜を祭るために建てたものです。

李攀竜は明の時代の嘉靖「後七子」の一人として、「古今诗删」「沧溟集」などの作品を残しました。

万竹園は趵突泉の西のほうに位置します、敷地面積は1.2万平方メートル13の庭からなっています。

竹が多く植えてあることに因んで、名つけたことに、万竹園の地名は由来しています。

中国南の方と北のほうの庭の特色を兼ね備えた庭です。

万竹園はコントラストを保つために、泉や池などに応じて、楼閣やあずまやを建てた古典的な建築群です。

海棠園、石榴園、玉兰園など小さな庭からなっています。

1986年、近代の中国画の大家である李苦禅の記念館が万竹園に建てられました。

趵突泉、漱玉泉、金線泉など、そのほかの泉とあわせて一帯は趵突泉公園に整備されています。

趵突泉公園葉1956年に建てられ、増改築を繰り返し、現在の規模になりました。

総面積は10.6ヘクタールです。

趵突泉公園は江南の庭の特色を融合し、民族的なスタイルを持つ公園で、山や石が公園の雰囲気を演出しています。

あずまやや楼閣が水に面して建てられています。

魚の影が映る澄んだ水面としだ柳の緑が美しいコントラストを見せています。

趵突泉公園のあたりの景色がとてもすばらしい、趵突泉は济南の72名泉を代表する泉と称されるのは名実ともに備わっているからです。

また、趵突泉は、千仏山、大明湖と並ぶ济南の三大観光スポットと称されています。

趵突泉のご案内はここまでにいたしますが、どうぞごゆっくりご見学くださいませい。

ありがとうございます。

 

五、孔廟

ようこそ孔廟へ

孔廟といえば、孔子のことを思い出さない人はいらっしゃらないでしょう。

孔子、名は丘、字は丘尼、紀元前551年、山東省済寧市生まれ、春秋時代の思想家にして政治家、教育家でもあります。

孔子は儒家学派の創始者として世界でも広く知られています。

孔子の語いた儒教学は中国伝統文化の柱と成り、世界に大きな影響を与えると記録されています。

孔子は中国伝統文化の中で最も傑出した指導者として代表的な人物です、世界10大文化人の一人として、孔子はモハメット、イエス、釈迦とともに世界文化創造の四聖哲と呼ばれています。

孔廟とはその字が表す通り孔子を祭る廟という意味です。

まず、孔廟の歴史について説明したいと思います。

至聖を祭る廟ですので、聖廟とも言われます。

紀元前479年に、孔子がなくなった時、魯国の哀公が孔子を祭るため、また、講師の弟子たちが恩師を哀悼し、師への尊敬と哀悼の念を表すため、孔子の住んでいた家を改築してこの廟を立てました。

孔子が生前、使っていた衣冠琴車書などを収めて祭りました。

それを初めとして、後ろに増改築を繰り返し、明清時代に現在の規模になりました。

これは東方建築の特色を持つ膨大な建築群は、面積の広大さ、壮大さ、悠久さ、保存の完璧さ、いずれにおいても、古建築学者から世界建築史上『唯一の稀な例_』と称せられます。

1994年12月に、世界自然文化遺産に登録されました。

この建築群は後世の人々の孔子に対する尊敬と、孔子の思想の広さと深さをあらわれています。

孔廟は長方形で、南北は645メートル、東から西まで150メートル、敷地面積は9.6万平方メートル、建築面積は1.6万平方メートルにも及んでいます。

このような広大な敷地の中を詳しくご説明すると、長い時間がかかりますので、今日は特徴あるところだけご説明したいとおもいます。

ご了承ください。

孔廟は左、中央、右と三つの部分に分かれており、塀で囲った庭園が九つあります。

この広大な敷地の中には、466間あると言われています。

真ん中には杏の壇、大成殿、寝殿、両庑、聖跡殿などが立ち並んでいます。

東には崇聖門、詩礼堂、崇聖寺、家廟が立っています。

西には啓聖門、金丝堂、啓聖王殿等がたっています。

これらの建物がどのように使用されてきたかについて、ざっとご説明したいと思います。

万仞宮墙は曲埠明城の正南門,孔廟の第一の門です。

万仞宮墙という字は清の時代乾隆皇帝が孔子を重んじることを示すために自分の手で書いたのでした。

孔子の知識や知恵が深いということを示しています。

霊星門は明の時代建てられ、後は木造の代わりに鉄造になりました、こういう建物は文化面では、孔子に及ぶ者はいないということを示しています。

孔廟の中で,本殿の大成殿は宋の時代建てられ、清の時代増改築をし、今の規模になりました。

大成殿は清の時代が特別に許した後宮建築様式で建てられたものです。

精緻な竜の彫刻が施された10本の柱があります。

正殿に、孔子の像がたっています。

大成殿は北京の紫禁城泰山の岱廟とともに中国三大建築群と称されています。

杏壇は大成殿の前のところです。

杏壇は宋の時代建てられ、金の時代、あずまやをたてました。

杏壇は孔子が弟子に講義を行った場所として伝わっています。

寝殿は孔子の住むところで、孔子の奥様を祭るところと言われています。

聖跡殿は聖跡図を保存するために建てたものです。

聖跡図は120の石碑彫刻からなり、孔子一生の主な生活活動を絵で描いたものです。

これは中国で、最も早い、人物も文字も兼ね備えた連続物語で、歴史的にも芸術的にも高い価値をもっています。

孔廟に足を踏み入れた瞬間、千年も万年も時代を越えたような、千山万水の距離を越えたような、これから孔子と他たちに対面するかのような錯覚を覚える人が多いでしょう。

孔廟のご案内はここまでにいたしますが、どうぞごゆっくりご見学くださいませい。

ありがとうございます。

 

六、碧霞祠

ようこそ碧霞祠へ

皆さん、今、私たちは泰山にいます。

今日は碧霞祠へご案内します。

碧霞祠と申しますと、まず泰山から話をすすめるべきでしょう。

「東岳」の名で知られている泰山は、中国東部に位置して、総面積は462平方キロで、標高は152メートルです。

泰山は「五岳の長」「五岳独尊」と称されています。

どういうわけで、こうなったかといいますと、昔から、東を「万物交替、初春発生」の地とする信仰があります。

泰山は神山であり、「天の象徴」と考えられます。

古代の封建帝王は即位後、よくここへ参拝にやってきて、「封禅の礼」や天地を祭祀する行事を盛大に行っていました。

秦漢から始まる中国古代73位の皇帝が、かつてこの泰山を訪れて祭祀を行い、天神のご加護に感謝しました。

文人墨客は多数参拝して、石に字句を刻んで、泰山に大量の歴史文化財や遺跡を残していました。

そのため、泰山は皇帝の山、文化の山と言われ、中華民族の精神によりどころとして悠久の歴史を持っています。

麓から山頂まで、石段と歴史的建築物が続き、まわりのすばらしい景色とあわせて、1987年に世界自然、文化遺産に登録されます。

泰山についてのことはただいま申し上げた通りです。

次は碧霞祠のことをご説明したいと思います。

碧霞元君は道教の神、東岳大帝の娘だと伝えられています。

宋時代の真宗帝のごろ、「天仙玉女、碧霞元君」に封じられ、勅命により「祠」が造られ、祭られることになりました。

碧霞元君は泰山で最も栄える神霊で、民間では「泰山のお婆さん」「泰山の老母」と呼ばれます。

生死や生産、厄除けなどにご利益があり、「万能の女神」と称されています。

中国各地に分布している碧霞元君は数えられないと言われています。

祠は泰山だけに3つあり、上の廟には碧霞祠、中の祠には紅門宮、下の祠には霊応宮があります。

今、案内するのは上の廟の碧霞祠です。

「碧霞元君祠」は「泰山」の女神を祭る建物として広く知られています。

宋の時代に建て始めて後にも增改築を繰り返し、相当の規模を持つ建築群になったのです。

それらの建築群は正殿、東と西配殿、香亭、山門、御碑亭、鐘鼓楼など12の建物からなっています。

山門がこの建築群を前の庭、後の庭に分けています。

前の庭の玄関は「南神門」と呼び、この玄関から見ると、青竜、白虎、朱雀、玄武という道教の「四霊」の像が見えます。

ここは「火の池」といったところで、線香を立てる場所です。

このアーチ型の門は東神門と西神門です。

ここは東鐘鼓楼と西鐘鼓楼です。

前の庭のことはとりあえずこれで一通りお話しましたので、これから後の庭のことを説明したいと思います。

後の庭へはいると、二つの方亭が見えます。

山門の向かい側の香亭は清の乾隆の時建てた物です。

香亭の両側に明の時代の二枚の銅碑が立てられています。

両側の銅碑は碧霞祠の歴史を記述していたのです。

皆さん、私たちは今碧霞祠の正殿に来ました。

正殿には「碧霞元君」の銅像が祭られています。

この「碧霞元君」の銅像は明の時代建てられました。

また、山頂では、気温が低く、気候が厳しいですので、正殿の瓦、しび、軒下の鈴などは銅で鋳造されます。

皆さんは気付いますか。

特に、この360枚の銅瓦は、ちょうど中国の旧暦の一年の360日をあらわします。

正殿は雷を防ぐために金属の鋳造部と土木煉瓦などを結び付けた設計を採用しています。

東配殿は「眼光」の女神の銅像が祭られているところです。

西配殿は「送生」の女神の銅像が祭られているところです。

これらの銅器は数百年の風雨

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